那覇空港をたって1時間。「間もなく鹿児島空港に着きます。鹿児島空港は雪」。耳を疑ったキャビンアテンダントのアナウンス。鹿児島空港は、吹雪。機体が激しく上下を繰り返して着陸。
鹿児島での講演会を終え、岡山に移動すべく、鹿児島中央駅から電車に乗る。予想した通り桜島が冠雪。雄大だ。海の鮮やかな冷たい蒼色。空も青。車窓に額を押しつけしばし眺める。すぐにガラスが曇って顔を遠ざけ、手で曇りを拭いて、また、顔を近づけ桜島を眺める。その繰り返し数度。こうした車窓を眺めることが貴重な気分転換という暮しが続く。
岡山での講演を終え、倉敷に泊った。今朝、2月14日。倉敷も雪。みぞれに近い、薄く小さな雪が40程度の角度で横降り。身体が芯まで冷える。倉敷駅で岡山行き普通列車を20分近く待つ。待合室に入らず、ホームに身を晒し雪に当たる。底冷えすることが好きだ。なぜだろう。心の底も冷えてしまいそうな厳しい寒さが心地いい。稚内に行った時もそうだった。函館の零下7度の時もそうだった。自分の存在、自分自身を確認しやすくなるからか。よく分からない。荒涼とした中に身を置くことが好きなのだ。もしかしたら、人間死ぬ時はこうした荒涼感の中にあって、生きていることを深く自覚し、心地よい感覚に陥るのだろうか。まだ、私は死にたくはない。
「あなたはどちらの環境に身を置いたときが居心地よいですか」。灼熱の夏、炎天下の空の下。大きなヤシの木の下にある日陰ソファーで寝ころび、風に吹かれる自分と、厳しい吹雪に打たれて、防寒具をまとい、岸壁にたたずみ海を眺める自分。どちらがあなたは好きですか。どちらに、自分の身を置いた方が心地よいですか。
私は、限りなく後者である。柔らかな日陰のそよ風もいいとは思う。しかし、裂くような寒風が身体をたたいてくれる方が好きである。理由はない。わからないという方が正しかろう。そういう生き方の中に身を置く方がいいと感じる育ち方をしたということなのだろう。人間は、生身で体験したあらゆることで自分の感性を育み成長し、いつのころからか衰退していくのだ。もしかしたら、灼熱の夏の木陰が好きだった自分もいたのかもしれない。今は違うのだ。感性は年を取るごとに研ぎ澄まされ、徐々に衰退する。我が感性はいまだ衰えを知らずある。命はまだまだ伸びそうだという証だと思いたい。
倉敷から名古屋まで移動している。京都を過ぎるあたり。今日も流浪している。