愛知県高浜市で、平成の門前町づくり

我が国の門前町は、神社・仏閣を参詣する人間が各地から集い、にぎわいを構えるに伴って、「まち」が形成されていった。その現代版の「門前町づくり」を、ずいぶん前から提唱してきた。夢のみずうみ村を始める少し前からだから、もう11年近くたつ。当初は、「健康鉄道事業」と呼称して論文を書いた。子どもから大人、障がい者も元気者も、すべてが集い、健康になる場所を全国各地に作り、そこを訪ね歩こう。そこに、お金が落ちる、それがまちづくりの手段になると思い立ったのだ。そのむかし、中学3年の時、アメリカ、ネブラスカ州の「BOYS TOWN(少年の町)」というコロニー施設を日本に建設したいという思いを持ち続けた結果の行動であった気もする。「三つ子の魂、百まで」ということわざに似た、小さい頃の憧憬のような発想であったように今思う。

 そのベースが、夢のみずうみ村につながったと思っている。さらにそれが、「健康リハビリ巡礼札所事業」という発想に発展していったものである。今から、7、8年くらい前か、時期は曖昧だが、当時、沖縄県の経済関連の部長で、通産省から出向されておられたキャリアの方が、沖縄での勤務を終え本庁に帰られるときに、縁あって私に会いたいということになった。

「沖縄での、経済発展、まちづくりに夢のみずうみ村の発想を生かしたい」とおっしゃる。 

最初は、そういう漠然とした話しであった。沖縄に到着する私の時間と、沖縄を離れられる部長との接点での時間、40分が会談時間、それも空港内であった。

「沖縄に新しい経済の風を、介護の分野でなにか・・・・」という程度のきっかけ話に置き換えて話した。しかし、「国から法外な予算がすでに決定しており、企画がないのでぜひ提案を。しかも、締切期限があと3日」 すさまじい話であった。即座に、巡礼札所事業は具体化する。そう確信。こうした背景を聞けば、誰でもそう思うだろう。公募でありながら、限定された、決定的企画案を期待されている。そう即座に判断し、燃えた。

 みずうみ村に緊急電話。岡田代表代理、吉岡事務次長に、企画案を、3日間で仕上げるべく、細かく指示を出し、この2人と共に、半徹夜状態で企画案を策定。期限は3日。細かく、事業内容、予算を作成。この2人がいなければ「夢のみずみ村は何事も始まらない」と以後確信する「きっかけ」になったと今思う。

こうして、提案した企画が、「健康リハビリ巡礼札所事業」なのである。

沖縄県に、ヒアリングで呼ばれていった。結局、応募した事業はたったの2件。ヒアリングも、形式的なものであった感じ(?)。この話しは、出来レースであったことがすぐにわかった。それは、提出されたもうひとつのグループの中に、我々の知人がいたのだ。彼曰く。「特に企画らしいものはないんだよ我々には。うちのヒアリングはどうんるのかね」というようなことをこっそり暴露????(聞けば、それはほとんど未計画状態で提出されたようなものであるが、天下りの職員を交え、「これからお金があるから何かやろう式の組織」がこの予算を獲得するための当て馬に私が仕立てられたのではないかというのである。人生で初めて、裏の世界を見たようえ、悲しくもあり、さみしくもあり、悔しい出来事であった。

岡田、吉岡の両名に合わす顔がなかった。思い出すと今でも情けない。

それが、今、愛知県、高浜市で実現しようとしている。

 しかし、この提案企画書は、その後、全国各地に配ることになる。山形県さくらんぼ東根市、島根県津和野町、東京都、品川区、練馬区、沖縄市、具体的に、自治体首長や関係部課長と具体的に検討した機会を持った市町村は多く、話だけの市町村長、関係者、(社)は相当数にのぼる。語るたびに、私の思いは洗練整理され、とうとう、厚生労働省のモデル事業で、具体的に調査研究費をいただいて、山口県の夢のみずうみ村で実践していく運びとなった。  その間、国交省からは、3回にわたって、高島平団地、多摩平団地、千里ニュータウンなど、団地の空洞化に対する対策提案として、健康リハビリ巡礼札所の話を期待され会合を持った。 極めつけは、「安全と安心の介護ビジョンという」会で、当時の升添厚生労働大臣にも語ったのだが、その時は、会合のすさまじい「人(ひと)気」に圧倒されて、全くしゃべることができず、自分の非力、表現力、まとめ能力の拙劣さを痛感させられた味気ない話し。

 昨年行われた、第1回経済実勢ヒアリングで、当時副総理であった菅現総理の諮問機関で、「平成の門前町」の話をした。

そうなれば実現に近づいてきそうだ。このまま 高浜市の意気込みに巻き込まれて一気に日本第1号の健康リハビリ巡礼札所事業が展開するよう頑張りたいものだ

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