夢のみずうみ村は満10歳になった。平成13年4月1日。朝日が照るが小雪が舞うという思い出深い天候の中、山口市から秋吉台に向かう途中の、街並みとの切れ目になる小高い山の中央の一本の杉の大木を私はチェーンソーで切り倒した。それが夢のみずうみ村の始まりであった。平成13年9月1日山口デイサービスセンターを開設した。以来10年間。特定非営利活動法人(NPO)で始めた施設は、平成23年8月1日、社会福祉法人になった。新しい時代の社会福祉法人の在り方が問われて久しい。今まさに改革がなされていく中でなぜ、社会福祉法人なのかと何人かの方々から質問を受けた。なぜだろう。よくわからないが、そうすることがより安定して社会貢献できそうな気がした。いやそれとも違うかな。私は、21歳になろうとするとき、社会福祉法人「至誠学舎」、児童養護施設「至誠学園」の児童指導員として大学在学中にもかかわらず住み込んだ。施設での体験を通じて、福祉を行うには、社会福祉法人にならなければできないものだと思い込んでいた。社会福祉法人になるためには私財を投げ打たねばできない、資金を蓄えないとできない、その額3億円。常にそれが頭にあった。財力は私には全くない。話にならないと半ばあきらめていた。
「夢のみずうみ村は、社会福祉法人になれる財力、運転資金が備わっています」と、県庁からの報告を事務次長の吉岡さんから受けた。「まさか?」、不思議な気持が先に立った。まだ相当の借財が残っているし、施設は銀行の担保物件にもなっているのだ。しかし、県の担当者に様々な資料を提出し吟味精査してもらっての結果である。間違いはあるまい。しかし、こうも簡単(?)にOKになるとは、意外な回答であると正直に感じていた。私の指導員時代(今より40年も前)より、社会福祉法人の設立要件が相当緩和されているのだろうか。1億円の資産でいいのだが、それがあるか? 「ある」という。どうも納得いかない。説明を受けた。うわっ! 資産ありだ! 手持ち資金5000万円以上が必要とのこと。ないぞと思っていた。通帳に、しっかり、介護保険料収入が入り、5000万以上の金額が通帳に刻印されている。それで十分という。社会福祉法人の要件は整っていたのだ。ただし条件があった。根抵当権を銀行が放棄してくれるか否か。ことは早かった。短期間の間に、事務次長は孤軍奮闘した。ずいぶんと、山口県の担当者、山口銀行と萩山口信用金庫と、時間をかけ、書類を作り加筆修正を繰り返し、いろいろ話し合い相談し、山ほどの書類を作り上げ、今日を迎えた。様々な方々に感謝したい。
さて、記念式は山口市内の会場で行われた。私は、浦安デイサービスセンターが7月1日に開設していたので、そちらで陣頭指揮を執っており、記念式典の準備一切に全く関わらなかった。ただ、仰々しい、権威的な会だけはやめてくれと、代表代理の岡田君には注文していた。利用者さん、職員、村民、協力者の方々が集って、10年間を振り返るという企画になり、意図は明確に実践された。
第一部は、利用さんであり、料理、俳句、ちぎり絵の先生として、開設当初から10年間、施設利用と指導者の役割を継続してこなされた3名の利用者さん(臼田さん・島田さん・高澤さん)の表彰を行った。開設当時は、数名の利用者さんであった。1名も利用者さんが来られない日もあった。3名の方は、徐々に増えてきた利用者さんの先生役であり、自己選択自己決定方式の展開を可能とする重要な役割を担っていただいたのである。感謝いっぱいである。一番前の席に陣取られているお三方に記念品を贈呈させていただいた。
次に、ボランティアとして長年活躍していただいた、お二人(山根さん、倍地さん)を表彰させていただいた。山根さんは、下関から早朝に自車で来られ、施設が(営繕的な部分で)一番困っていることは何か、独自に察し、炎天下であろうが、極寒の大雪であろうが、黙々と外仕事が中心での作業をされ、昼食を、利用者さんとともに召しあがり、夕方、利用者さんが帰られる4時ごろに作業を終え、シャワーを使われ、自動茶器から、ご自分でお茶を入れて飲まれ、しばし、休息されて、そっと去って行かれる。それを10年間継続された。ボランティアとは山根さんのことをさす。あり難い存在である。この日を待ってお礼を申し上げたかった。当日、レセプションを会場のホテルにご宿泊いただいた翌日。さっそく、夢のみずうみ村山口の入口の急斜面の伸びきった雑草を芝刈り機で刈っておられる山根さんに遭遇した。いつもこうだ。本来、こうした作業は職員がしなければならない。しかし、後回しにする仕事か、やらないで見過ごさざるを得ない作業をこなしていただいてきた。感謝してもしきれない。
お二人目の倍地さんは、ご自身が、障がい児と長年かかわってこられた経歴をお持ちの方である。NPO法人夢の湖舎の設立組織の一つである「ラ・ベルヴィ」(脳性まひ児を持つ親の会)の子どもたちのお世話をするボランティアとして、夢のみずうみ村とのかかわりが始まった。創生期、「ラ・ベルヴィ」のお母さん方の3人が職員となられ、2人がボランティアとして、我が子を連れて、村に出勤される、その子どもたちのお世話をしていただいた。介護保険事業に併設して、自立支援事業が始まり、特に、児童デイサービスが始まってからは、職員とともに、いや、職員以上に子どもたちを、責任を持ってご指導いただくことになっていった。職員になっていただきたいとお願いするが諸般の事情を語られ、それをやんわりと断りながら、ボランティアを続けてこられた。児童デイサービス、自立支援事業の職員はこの間交代をしていったが、全く変わらず倍地先生は子どもたちのお世話をしていただいた。職員以上に、夢の湖の子どもたちのことや、施設のことを承知されているほど大切で重要な存在になっていただき、ご心痛やご支援をいただいた。ありがたい限りである。
いよいよ、職員の永年勤続表彰を行うことになった。10年前私を含め7名の職員で夢のみずうみ村は始まった。そのうち、もともと「ラ・ベルヴィ」のメンバーであった原田さんは、同会が夢のみずうみ村から発展分離していったときに「ラ・べルヴィ」に転勤されていったが、開設時のメンバーがそのまま今日まで残っているのである。自慢したい。開設時に一緒にいた私が、他の5名の職員を表彰するのである。泣いてしまって表彰ができない様では情けない、どうしたらいいかとずいぶん案じていた。岡田代表代理が表彰状素案をメールしてきた。どうもしっくりこない。紙切れは私なら欲しくない。記念品だ。そうだ、何か記念品を探すのだ。すぐに、萩ガラスにしようと頭に浮かんだ。生活の中で使う道具を記念品にしよう。置物をもらっても僕はうれしくない。記念式典の前日、浦安から山口に戻り、萩ガラス工房に出向く。同じものが2つとない創作ガラス。萩市の日本海べりの火山「笠山」の岩石を使った独特のガラス細工品である。社長の藤田浩太郎さんは私が会長を務める「いい萩をつくろう会」の仲間であった。5人の職員の顔を一人ひとり思い浮かべ、ガラスと漆の合作カップ、コーヒーカップ、花瓶、ジョッキ、色違いグラスを求めた。翌日、5人の職員に手渡すとき、僕は声がつまり、言葉にならないと思った。前日常宿であるホテル喜良久の部屋に、神と筆を買い込んで、一言を、一人一人に書き始めた。何度も何度も書き換え言葉を選んだ。
まず、吉村恵子さん。施設長として、ずいぶんと私は彼女を困らせた。言いたい放題、頼みたい放題。難題を持ちかけ、それをこなしてほしいとずいぶんと走っていただいた10年だった。「型の崩れない豆腐」。彼女につけた私からの称号である。どんなことも、どんな職員の悩みも彼女は吸収する。聴いてくれるのだ。利用者さんが困ってしまうようなことが予測されたら、休暇であろうが日曜日であろうが昼夜を問わず施設に出入りして、対策を黙々ととる。事務所に腰を掛けている姿を見るのは、夕刻の仕事が一通り終わった後か、緊急に会計処理ないしは事務処理をしなくてはならないちょっとした時間以外にはない。常にじっとしていない。広い施設の隅々を、ちょこまかちょこまか、左右に眼をこなしながら歩き回り、掃除し、ごみを拾い、ものをセットしたり移動したり、何かと仕事を見つけては動いている。じっとしていないのだ。今、私は、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターに常駐している。そこで、久しぶりに現場を取り仕切っている。朝夕の掃除に始まり、職員の動き、仕事の分担決め、洗剤からちり紙一つに至るまで、なんとも細かい雑多な仕事が数えきれないほど次から次に発生する。しかも毎日仕事だ。「吉村さんならどうしていたか。彼女ならどうするだろうか」それが、私と、山口県から浦安に期限付きで転勤赴任している、渡辺愛さんとの口癖である。浦安に来て、吉村さんの動きにまたしても私は気付かされた。「目につくことは誰もがやりこなす。吉村さんはただやる。しかし、目につかないことや目につきにくいことに気づき、それを黙々と自分でやっている」。誰も見ていない、誰もそれを吉村さんがやってくれていることを知らない。知っているか知らないかよくわからないがやってくれている。吉村恵子さんはそういう人だ。「若い人が、あなたのあとを追いたい。あなたを目標としたいといいます」と、私は書いた。それを壇上で読み上げた。職員みんなが、「そうだそうだ」と応じてくれているような気がして、涙があふれた。いい人が私たちを支えてくれている。
2番目に、藤村美智子さんを表彰した。萩市にケアマネージャーがいて、もしかしたら就職してもらえるかもしれないと、夢のみずうみ村を建設してくれた浜村工務店のかみさんが私に何かの折にポロッと語ってくれた。ケアマネージャーは、介護保険創生期で希少な存在であった。萩市の大病院から、見も知らぬ、わけのわからないNPO法人の施設などに転職してもらえるはずもないと思った。しかも、通勤に1時間半程度は楽にかかる。冬場は中国山脈の凍結との戦いが不可欠だ。案の定、最初は返答が頂けなかった。どうも難しいという返事だよと浜村さんから聞かされた。私は初対面でこの人だと決めていた。だから何度か声掛けして会って説得を重ね、ようやくOKをもらった。通勤hやはり大変であった。同じ萩方面から通勤するのは、藤村さんと片山さん、それに私の3人である。実際、冬場に凍結し、当時私が冬場対策用に自車は四駆であったので、それに、市民体育館前に駐車して、二人に同乗してもらって通勤したことが3,4回はあった気がする。よくぞ、山越えの就職を決断していただいた。初期の頃、中古プレハブの室内は夏場35度以上ある中で、黙々と仕事をこなして頂いた。一人ケアマネージャーとして、実に多くの方の面倒を見ていただいた。今は、山口デイサービスの居宅支援事業所に3名、防府デイサービスに2名のケアマネージャー体制である。その第一号が彼女である。家族の話をしながら、涙する場面に、何度か出くわしたことがある。クレームが来たご家族のもとに、私も一緒に出向いていったこともある。やや首を右に傾け、ええ、ええ、とひたすら相槌を打つ彼女。私は。腹が煮えくり返っているのだが、彼女のスマイル交じりのひき釣ったよう顔を垣間見ると口がはさめなかった記憶がある。どういう場面かは忘れたが、彼女のスマイルと真剣なまなざしには、人を吸い込む「目力」があるように思う。ずいぶんとこの10年間は嫌な思いもあったのだろう。感謝したい。
3番手は、一緒に冬場の中国山脈山越えをした、片山康成さんだ。萩子どもクラブという自閉症児の訓練ボランティアサークルを萩市で開始した当初からのボランティアである。郷里に戻ってこられて、建築設備会社に勤務している傍ら、ボランティアとして子どもクラブの活動に参加された。現場の作業服のままボランティアに来られてこともあったように思う。子どもとのかかわりなど無縁の方のように思えたが、実にこまめに動かれた。萩子どもクラブ忘年会では、彼の同僚のボランティア(太田さん、藤本さん)と3人でど演歌をうたわれるのだが、どうもその光景と障がい児と遊ぶ姿が結びつかないが、実に3人とも見事に子ども達の輪の中に入って活動していただいた。夢のみずうみ村に就職していただいた年だったと思うが、クリスマスも近い寒い日の夜中12時近く。戸締りして帰ろうとする私の耳に金づち音が響く。まさか、こんな時間に誰かいるのか!?。近寄って見る。小雪舞う外の壁に、巡礼札所の木工細工を作っているのだ。88か所をつくろうと躍起になっていた、その一つを真夜中につくっているのだ。近づいて行って私は彼を叱った。「クリスマスも近いのに、子供たちも家で待っているだろうに、なぜ、君は家に帰らないのか!!」・・・・(早く帰って子どもたちとクリスマスを祝ってほしい、そう願ったのだ)。私は、彼の子どもたちもよく知っている。ボランティア活動に奥さんともども一家で参加してくれているからだ。せめて、クリスマス前ぐらいは家庭サービスをしてほしいと感じたのだ。「早く帰ってやってくれよ。なぜ帰らない!」と叫んだ私に、鼻水を袖でこすりながら、「楽しいのです、これ(大工仕事)」と答えた。巡礼札所の数が一つ二つと、自分の手作りで村に増えていくのが楽しいというのである。私は声にならず、ただ、片山君の手を握って泣いた記憶がある。「君は、夢のみずうみ村の原点だ」。そう、記念式典の表彰メモに記した。
4人目は、石田陽子さんだ。高2の時、当時山口リハビリテーション病院に勤務していた私のもとに患者さんとして現れた。外来リハビリに必ずお母さんが車で送迎し、半日以上訓練して帰っていく。彼女は脳卒中後遺症左麻痺なのである。高校三年生を卒業して進路を相談された。今の彼女の機能レベルであれば、作業療法士がいいよと煤円たはずだが、私は作業療法士は厳しいと進言したと思う。彼女はあん摩マッサージ師を選択し学校も決めて私に報告に来た。しばらく私の前に現れなかった彼女が、その学校を卒業した直後に母子で私のもとに来られた。「先生はお顔が広いから陽子の就職先がないかとおもって」とお母さん。「ありますよ」と答える私。「どこですか」と陽子ちゃん。「夢のみずうみ村です」。6月から開所する予定でいたのである。ほかにも就職先を探せばあったと思うのに即断された。「陽子は山口百恵よりかわいい」というお母さんが、就職とはいえ、陽子さんを単身遠方に出すはずもあるまい。山口なら自宅から通える。ならば夢のみずうみ村就職OKだったのではなかろうかと勝手に思っている。彼女は1時間以上もかけて、車で通勤する。ラッシュを避けるために早朝暗いうちから家を出て、7時過ぎには、もう施設につく。早朝は予想外に利用者さんから施設に電話が入る。「今日は休みたいが・・・」という類のものだ。出勤者を早朝から配備することはいろんな意味で難しい。しかし、我が施設は石田陽子さんによって、朝の電話対応は完璧であり、ドアや窓の開閉はまず彼女一人がやっているといっても過言ではない。彼女は、悪い方の左足を引きずりながら走る。両手両足が効く人間よりも素早く反応できる。障がいを持たれた方の目標に彼女はある。本当にすごい人が、夢のみずうみ村に就職していただいたと感謝している。
最後は、宮本史郎君だ。社会福祉主事か、社会福祉士がいなければ相談指導員不在となるので、人集めに躍起になっていたがどうしても誰もいない。4月に入りかけたある日、「来年大学を受験して社会福祉士になろうとしている、社会福祉主事任用資格をもっている青年がいる」との情報が入った。すぐさま電話して会いに行ったと思う。彼に初めて会ったときの印象は「素朴な青年」というものであった。それは今も変わりがない。私は、この10年間、何度となく彼を叱り飛ばした。ある時は私の感情に任せ、どうしてそうしない、こうならないと、微に入り細に入り、彼に語り、一緒に夜遅くまで残って、書いたり作ったり、考えたり、様々なことをし尽くした。とりわけ、「おやじ表」「おふくろ表」というエクセルで自前で作った「収支見通しソフト」は、経営状態をチェックし現金の過不足をチェックするものであり、給料が払えるか否か、いつの段階でお金がショートするかしないか、それを確かめるものである。その表を、仕事で疲れ果てた夜中の十時過ぎころから深夜に至るまで入力しチェックし、赤字か黒字か、資金ショートするかしないか、一喜一憂した。彼は目を真っ赤にしながら、いつも必ず最後まで黙々とついてきてくれた。平成18年の介護保険の改正で、夢のみずうみ村が大赤字になった時、47都道府県を私が講演して回って資金稼ぎすることになった。第一回目は途中まで1人で回っていたが、私が大変ではないかということになり、彼が運転する車で全国を回った。時々ほかの諸君と回ったこともあるが、大半は、彼と全国津々浦々回った。ある年、夢のみずうみ村を出発した季節はまだ秋の始まりかという9月半ば。巡り巡って、東北自動車道で、青森あたりまで講演して回っていた時、高速の路面が凍結していることに気付かされた。車が横滑りしたのである。ノーマルタイヤで夢のみずうみ村を出ていた我々に、冬が押し寄せていたのだ。高速を時速30キロで走る。スリップする。この知己は本当に怖かった。真っ暗闇を走りながら黙々と、その日の宿まで移動する。めったに彼と会話を交わすことなく移動するのだが、腹がすくと、運転している彼に私が声かける。「今日何食べたい?」。彼は「○○を食べたい」と1回も行ったことがないのでさる。「別に・・・。何でもいいです」と答えることはわかっているのに私は問う。車を走らせながら、道路わきに、気を挽く店があると私が「ここにしよう」と決めて、晩飯となる。お互い疲れたときは道端の看板に書いてある温泉(健康ランド)に立ち寄って、つかの間の休息をとる。そうしなければ、宮本君は5時間でも6時間でもぶっ通しで、トイレ休憩もろくにとらず走る。隣で寝ている私は楽なのに彼はひたすら走る。これまで講演会は全国5周し、夢のみずうみ村の危機を救った。彼がいなかったら、夢のみずうみ村はここにない。そういう夢のみずうみ村の背後を彼はしっかり支えてくれた。
式典が終了し、歩いて5分もかからない隣の会場で懇親会である。200名近くの方々が参加された。多くの利用者さんがご家族とともに参加していただき10年を振り返っていただくという試みは素敵な会の骨格となった。友人知己も数多く足を運んでくださった。こぞって、開設当初の様子から考えて、夢のみずうみ村が今日、これだけ発展するとは信じがたいという声であった。私が司会進行役を申し出て、一人ひとり、人物紹介をしながら、メッセージをいただく方式で動き回ったものだから、少し、藤原が目立ってしまったことを反省している。私とのつながりを随所に語らえるのでいささか照れ臭かったが、お一人おひとりのお話を聞きながら、ずいぶんこの10年は長かったなあと感じた。あまりに、たくさんのエピソードがあり、結構、忘れていた話も飛び出し驚いた。
慶応大学のボランティアサークル仲間の佐藤貢一君は東京より来てくれた。若いころから、施設をつくりたいと思っていた思いを紹介してくれた。山口リハビリ病院時代、「温泉病院という名称やめてリハビリ病院にしましょう」と一緒に旗を振った神経内科の川澤先生や、野垣先生も久しぶりにお会いして、今日こうなったことを喜んでいただいた。かつて一緒に精神科の病院で働き、現在岩国市の市議会議員をしている渡辺靖君が、私の30代の頃のすさまじかった動きを披露してくれた。今は医療法人和同会の常務理事になられた中村さんから、開設前の研修の話が飛び出した。山口コメディカル学院の同僚の先生たちも、ただただ今日の発展を祝っていただいた。いろいろな友人知己のお話を聞けば聞くほど、自分の人生がいかに充実していたか、必死に生きてきたかということを再確認できて実に心地よかった。利用者さんも、ご家族でご参加いただいた。「夢のみずうみ村に来て、絶対不可能といわれていた自動車免許が再取得できた」という少し長い話も、利用者さんの生の声は実に感動的であった。
会の終わりは、恒例の「夢のみずうみ村締め」である。しめ方は私が一番だと自慢している。「ちゃちゃちゃ・ちゃちゃちゃ・ちゃちゃちゃっちゃ」。小指と小指を1本立て、互いに交差させたたく。次に薬指が立ち、中指、人差し指と徐々に一本ずつ増えていき、最後は5本指同士の拍手で終わるというものである。最初は音がないようなので声で「ちゃちゃちゃ」と補強してやるが、最後は両手をたたく大きな音で、声は不要となるという代物である。実に夢のみずうみらしいしめ方で終わったとも思う。権威的でなく、儀式的でなく、みんなが祝う、みんなのための会。ただただ、和やかな、素敵な会となった。
多くの方々にご祝儀や、お花などを頂戴した。この場をお借りしても御礼を申し上げておきたい。
ほとんど料理を食べる暇はなかったが、時にふと、料理をつまみ、アルコールを座って飲んだ。ふと、「さらに10年、夢のみずうみ村は進化し続けるなあ」と感じた瞬間があった。職員のどの顔も和らいで、にこにこしており、元気溌剌に見えたのだ。夢のみずうみ村はこの先も強いぞ。
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