久しぶりに JALに乗った。帯広~羽田~那覇。ANAではなくなってしまった「日本の歌」の機内オーディオ。JALの2月版に島倉千代子が登場していた。「愛するあなたへの手紙」という新曲だそうだ。聞かざるを得まい。私は、島倉千代子に育てられたからである。聴いて、淋しくなった。
幼いころから、正式には、小学校2年生ぐらいではなかろうか。定かではないが、小さい頃の思い出だ。
島倉千代子の歌は「泣きべそソング」といわれるくらい、涙の歌、淋しい歌、悲しい歌、が多い。「星空に両手を」「恋しているんだもん」という明るい歌もあるが、若いころの私はあまり好きではなかった。小学生の私をして、心揺さぶられ、学校からの帰り道、田んぼのあぜ道のレンゲ畑の中に埋もれて、流れる雲の行く先を見ながら歌ったり、積もれた藁に埋もれて、一人彼女の歌を歌ったものだ。「からたち日記」「この世の花」「白い小指の歌」「思い出日記」「かるかやの丘」「思い出さんこんにちは」「哀愁のからまつ林」「他国の雨」。ほとんどの人が知らない歌ばかりだろう。さっと、今でも3番までしっかり歌える歌ばかりである。なぜ、これほど悲しい歌、さびしい歌を好んだのだろうか。自分でも今思うと不思議だ。小学時代から中学時代にかけての精神構築に深く影響していると今頃強くわかる。歌の力である。自分では心当たりがある。それは、「強くなくてもいい、弱くない生き方をすればいい」という拙著に書いた。
広島の中学校入学試験に不合格となり、地元萩市の市立第一中学校に中1の1年間だけ行くことになった。その時、だから、僕が13歳の頃。竹馬の友の堀君が「島倉千代子が結婚したぞ」と教えてくれた。こっそりと、芸能雑誌「週刊明星」を買って、白むく姿の島倉千代子を田んぼの中で、週刊誌の写真をちぎり、藁の上だったかどこか近くにおいて、夕方だったと思うが、先般の島倉千代子の「思い出日記」「白い小指の歌」を歌いながら泣いたことを、この歳になって、この機内で思い出す。感受性が強い自分であることを今更ながらに思い知る。それほど、我が理想の女性は島倉千代子であった。細面の彼女の結婚相手が当時、阪神タイガースの4番打者、藤本勝巳。ごつごつ男で、ブ男だと思った。以来、「美人は、ブ男を好む」が私の男女感である。
細面の女性が好みの女性であるとずっと公言してきた。モデルは若いころの島倉千代子である。当時はやっていた花王石鹸のコマーシャルのようにに細長ければいいというものではなく「うりざね顔」がいいのである。
中学2年生から、編入試験に合格した私は、単身、広島の中高一貫校に下宿して通うことになった。一人になると、無性に島倉千代子(の歌)が恋しくなった。
そこで、「蓄音機買ってほしい」と母に頼んだ。今の若い人は、蓄音機と言って何のことだと思うだろう。いかに私が年寄かが知れる。
「クラシックを聴くのならいい」との条件付きで、母は買ってくれた。面白いことに、ベートーベンレコード「田園」のLPつきである。なぜ、「田園」なのかはわからないが、以後、ほんの時々聞いた「田園」は「運命」以外に気に入っているクラッシックになったのだから、親の志は大事だし、三つ子の魂百までだ。
僕はと言えば、すぐに、レコード屋に行き、なけなしの小遣いで島倉千代子を買い続けた。自室の窓際で、よく、レコードをかけた。とりわけ、夕暮れ時や雨のしとしと降る日に、部屋の前の竹藪を見ながら聴いていた。面白いエピソードがある。
私の部屋の真下に住んでおられた若夫婦が、転居のお別れのあいさつに来られ、
「島倉千代子の歌、お若いのに、淋しい歌が好きなのですね。雨の日に私もよく聞きましたよ。」
と京都弁丸出しの丸顔の若奥さん。聴きたくもない歌を聴かせることが多かったとお詫びしたら、
「私も好きになりましたよ」と
社交辞令かもしれないが嬉しかった。島倉千代子が身内になったような感慨であった。
細表ですらっとしたウリザネ顔の島倉千代子は、今の彼女では想像もつかない。10代や20代の彼女は実にスマートで可愛いらしい。
同じJALの2月のオーディオの中に、花村菊江「潮来花嫁さん」がある。この歌も小学校2,3、4年頃によく一人歌っていたと思いだし、心きらめきだし、ブログに白状しようと書き出した次第だ。
島倉千代子は別格だが、総じて言えることは、こうした演歌の「さび」部分が、幼い自分にビンビン響いて、今の私の感受性を磨いたのではないかと確信している。
淋しがり屋であったと、自分で言えば世話はないが、仲間とワイワイやっている自分もいるが、一人でショボンとしていた自分もいた。小学校から無理して親が私学に通わせたおかげで、近所の友人はごく限られ、小学校が違ったので遊び時間も少なかった。竹馬の友がいないわけではないが、中高が一緒ではなかったので付き合いは少ない。思い起こせば、こうした幼少期に、演歌の「さび」が、我が人格形成に何か影響しているのだなあと思えてきた。今日聴いている島倉千代子の歌は、全く音域が狭くなり、声量もなく悲しい歌声だ。哀れが漂う。しかし、細面の若いころの彼女は私の永遠のマドンナだ。
島倉千代子が歌った「炭坑(やま)の子守歌」について触れておきたい。この歌詞は盲目作家で「幻の邪馬台国」の著者、宮崎康平氏の作だ。何度となく歌い涙を流した。私の「人間を見つめる意識の芽」をこの歌が醸成したのではないかと思う。また今日もここに思い出して見たくなった。残念ながら、レコードもCDも手に入らない。
1. 父ちゃん 今日も帰らんと
母ちゃん 炭坑(やま)で ボタ拾い
泣いて寝たやら ねんねこ妹
寝たら 寝たら 忘れよう ひもじさを
2. あんちゃん 今日も ザリガニ取りに
学校休んで 出かけたと
早ようお帰り しもやけ指が
痛い 痛い 日暮れの 風吹くに
3. 夕焼け雲は赤いのに
明日も学校へ ゆかれんと
みんなの弁当を横目で 見ちょる
学校 学校 なんぞに 行きとうない
昭和23年の私たちの世代は筑豊の炭鉱で育った「にあんちゃん」という作文で、こうした炭坑の子どもたちの苦労話を知っている。この歌には、子どもの健気さ、生活に追われる家族、兄と妹の思いやり。食べるものもこと欠く貧しさ、周囲の人間が見る冷たい目、温かい目、生きていかなくてはならない命、そういう様々な人間の思いや現実が、僕をして、幼いころに福祉の世界に追いこんでくれたのだと感じている。
今、思い出しながら、これを書いていても涙が涌いて出る。この歌は小学校3年生ごろに知った歌だ。その後、唱歌集かなんかで歌詞を暗記したのだろうか。63歳4か月になっても、口から出てくる。悲しく淋しいメロディーだ。今もこうして福祉に携わる者であり続ける私が、忘れてはならない原点の歌だ。その意味においても、若いころのあの島倉千代子こそ我が永遠のマドンナだ。
追記
書き終えて インターネットで 「島倉千代子 炭坑の子守歌」と入力すると、なんと当時のレコードのジャケットと、歌がそのまま出てきたのだ。ノートパソコンのささやかな音量で 我がマドンナ島倉千代子がよみがえってきた。ある方の「炭坑の子守歌」についてのコメントもあった。貧乏で苦労された「炭坑の子守歌」の話だ。涙、涙。歌の持つ力だ。
インターネットはすごい。「他国の雨」と入れたら、また島倉千代子が出てきた。12歳の頃の島倉千代子、デビューしたころの、私が大好きだったころの「細面の我がマドンナ島倉千代子」が歌っている。
落ち込み淋しい時には、これに限る。「我がマドンナ」のノートパソコンだ。