仙台駅のホームに立って「やまびこ号」新花巻行きを待っている。思わず口から出てきた演歌。徳久光司の「北へ帰ろう」。歌うたびに、涙なしには歌えなかった、この歌。ついこの間までの自分。今日は、淡々とホームの支柱にもたれ、新幹線を待ちながら一人口ずさんでいる。本当に「北へ帰る」のだ。東京駅で仙台行きの切符を買った。これまでなら、右側の東海道山陽新幹線の改札口方向に向かうのが普通であった人生が、左側の東北山形新幹線改札口方向に自然に足が向かう自分がいる。北へ私は行くのではない、帰るのだ。 今日は、仙台で途中下車し、明日、誕生会の祝いをする,大槌子ども夢ハウスの男の子、悠人君と夏君のプレゼントを買うのだ。PARCOによって、希望のサッカーリュックサックを買った。ほかに、ベルギーのチョコレートと別の店で、しゃれた飴も買い、例のごとく土産いっぱいぶら下げて、くそじじい(夢ハウスの子供たちは私をかつてはそう呼んでいたが、今は、クッソーと呼ばれている)、その「クッソー」、いつも、土産いっぱいぶら下げて大槌に帰るのだ。おおつちを出るとき、子どもたちとは「出稼ぎに行ってくるよ!」「いってらっしゃい」でおくられ、こうして出稼ぎから帰る。千昌夫の歌う「津軽平野」の歌詞同様の私。「♪おやじは帰る。土産いっぱいぶら下げてよ♪」。
西で生まれ育った私は、新幹線「こだま」「ひかり」がなじみ深い。今の私は、「やまびこ」「はやぶさ」に違和感がなくなり、こうして、仙台から新花巻まで乗っている。間もなく列車は、一関あたりを過ぎるころか。東北の農地が車窓に走る。「アメニモマケズ」が必ず口からついて出てくる。西とは違う田園風景に触れるからだ。「ノハラノ マツノハヤシノカゲノ チイサナ カヤブキノ コヤニイテ」という防風林に囲まれた農家、農地、東北がそこにあるのだ。私には、東北の貴重な思い出話がある。20代初め、親の気持ちに反して福祉現場に住み込んで大学に通い始めた私は親から勘当。大学の授業料を払うために、夜間のパン屋でのバイト(埼玉県川口市)。そこで、深夜の休憩時に、私の指導をしてくれた人物がある。中学校を卒業し集団就職でこのパン屋に就職。東北(どこかは聞かなかった)からやってきた年下のAさん。私のアルバイトの指導者なのだ。彼は8万円の給料を得ていたがそのうちの6万を家に仕送りしているという。私はといえば、私学で小中高と大学まで出してもらっている。それで、勘当されたので自分で授業料を稼ぐんだと豪語している自分。Aさんとのギャップ。「みんな出稼ぎに出るのです。うちが貧乏だから当たり前。郷里の兄弟のために、親に仕送りします。僕の周りのどこのうちでも皆やっている長男の役目です」淡々と語るAさん。甘い私。なんという東北の現実と、この青年(少年、という感じであったが、たぶん16歳、17歳だろう)の存在感のすごさ。頭をたたかれたというか、自分の未熟さを痛感。今でも恥ずかしさとともに思い出されるのである。その東北の北の地に、また今日も帰っていく私。
作詞・作曲 徳久光司 「北へ帰ろう」
1. 北へ帰ろう 思い出抱いて 北へ帰ろう 星降る夜に
愛しき人よ 別れても 心は一つ離れまい
2. 北へ帰ろう 思いを残し 北へ帰ろう 誰にも告げず
夜露を踏めば ほろほろと あふれる涙 とめどなく
3. 北へ帰ろう 涙を捨てに 北へ帰ろう 星降る夜に
みとせの夢よ わが恋よ 君くれないの くちびるよ