藤原茂プロフィール
1948年山口県萩市生まれ 作業療法士 NPO法人夢の湖舎理事、株式会社夢のみずうみ社相談役、琉球リハビリテーション学院長、日本作業療法士連盟相談役
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第1回夢のみずうみ杯片麻痺ゴルフコンペin沖縄
寒いさむい沖縄。沖縄は温暖な場所というイメージが壊れた。 指先はかじかみ 身震いしながら 選手は18ホールを終えられた。 4名ずつ8グループに分かれて順次スタート。 私も人生はじめてゴルフをした。 その昔、児童養護施設の指導員をしていた頃、施設の隣の立川市陸上競技場で夏の明け方、粗大ごみ場で拾ったドライバーで、打ちっぱなしをしている養護施設の子どもたち。管理人に叱られる。いかんやめさせようと出向いて行った私だったが、「お兄さんやってみない?」(私は施設では当時ワシャ兄さんと呼ばれていた)と、子どもたちからの誘い。その声に負けて、ドライバーを一振り。カキーンと素敵な感触。それとほぼ同時に「こらあー!」と、はるか向こうから怒鳴り声。管理人が走ってくる。あわてて私が一番先に物陰に隠れる。子どもたちが当然捕まる。注意を受ける。遅れて私。「すいません。厳重に注意いたします。勘弁してください」と謝って一件落着。その場を離れて、子どもたちには平身低頭。これが、唯一の我がゴルフ体験。 その私が、沖縄で コースに出たのである。 始球式をやる手はず。きちんとボールにあたると、煙を放ちながらボールは飛んでいくはずであった。おもむろにドライバーを振り上げ一振り。見事な空振り尻もち。何ともいただけない。2回目でなんとか転がしたが煙が出ないのである。二番手の実行委員長、角谷さんが、右手1本で見事に100ヤードくらい飛ばし煙を吐いて無事始球式完了。沖縄朝日放送では この模様がテレビ報道されたのです。 各パーティーは4人乗りカートを乗りこなし、競技開始。競技結果は別に発表があるとおもうのでここでは省略。片麻痺であっても、見事に18ホールを歩き回り、楽しむ、競うことができたのです。病前に変わらず行える事実がすごい。ゴルフを楽しんだことがない方も、これを機会に「片麻痺ゴルフ」をお始めになったらいかがでしょうか。 第1回の大会としては大成功。岩手県から参加された方から、岩手で、身体障がい者ゴルフ大会がすでに6回も開催されているとの情報あり。おそらく、各地で同様のチャレンジが行われているのではないでしょうか。ぜひ、このメールをご覧くださった方々から情報を提供していただき、輪をどんどん広げてまいりたいと痛感いたしました。 ちなみに、初体験の私は、9ホールで途中棄権(マンホールと呼ぶことにした)。しかし、実に爽快でした。ゴルフは難しいですね。私が打つボールは上にあがらない。ゴルフ打ちっぱなし練習場に足を運ばれる方々のお気持ちがわかります。夢のみずうみ村に「打ちっぱなし」を作らなくてはいけない感じですね。 この大会を、次年度以降、社会運動として、広く日本全国に向けて展開して参りたいと考えております。皆さんの力を結集していきたいと考えます。 どんどん声をお寄せくださいませ。
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日本海の魚は 能登もいい
石川県小松市の小松グランドホテルの先にある日本料理屋に偶然飛び込んで感動してから3度目の訪問。店の名を覚えた。日本料理「梶助」である。店の老夫婦と先のブログで書いたが、どっこい、店主は私より6日若い弟であり、奥方はさらにお若かった。息子の太郎氏とも名刺交換した。なんせ、この店お味付けが絶品なのだ。 「もずく」は「わかめ」のような大柄の葉状態で歯ごたえあり。焼き「しめサバ」は絶品。単に焼いたサバと異なり、甘酸っぱさがいい。アマダイの酢押し、エイのひれの煮つけを、さりげなく「うまいですよ」と大将がカウンター越しに出していただいた。まったくこれまでの人生で口にしたことがない味。ご当地だけの雌ガニ、岩ノリの茎ワサビまぶし(私がかってに命名)など自家製で作られる日本料理の味の深みは食べないとわからない。 魚は日本海。それも長州北浦と思っていたが、どっこい能登半島の魚介類もうまい。今日は、もう食べられないと思っていたが、オアイソした後に出てきた○○貝(名を忘れた)を長い竹ぐしで、殻から貝の先端までをくるくる巻きあげ、目の前に差し出されたら、口に入れざるを得ない。うまい。殻ごと煮るからうまいそうだ。煮汁を督促していただいた。能登に行くなら「梶助」だ。また伺いたいものだ。 かの山頭火は食い道楽であったのだろうか。ただの飲み助か。私は酒は飲めなくなった。
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足し算・引き算の介護研修会(金沢)終える
山口 福岡 岡山 札幌 と、「足し算・引き算の介護研修会」を終え、今日、金沢での研修を終えた。18時発福井行き普通電車に乗って本日の宿、小松まで移動する。北陸本線の普通車はドアが手動である。気づかなかったらドアの前で立ち往生するところであった。シートに腰かけるとお尻の下が熱い。暖房がしっかり効いている。寒い冬の到来。秋から冬にかけてのうらさびしい日本海と、スカイブルーさんさんと輝くぎんぎらギンの太平洋とどちらが好きかと問われたら、間違いなく前者だ。日本海のどんよりとした冬の海のうす暗さが自分の性にあっている。 金沢の講習会も参加者は熱心だった。午前中の講義。午後からのロールプレイ、バズセッションと活発にワーキングは進んでいった。夢のみずうみ村の精神をしっかり啓蒙できた。 この、足し算・引き算の研修は、来週名古屋だ。まだ、全日程の半分にも満たない。いささかくたびれている。今日はしっかり休みたい体力状況だ。小松には、なじみになった小料理屋がある。過去2回行ったが客は自分一人。老夫婦が、接待するともなく無視するでもなく、遠からず近からず注文を聞き、できたらそれを運び、静かな、店は黙って一人で日本海の冬のわびしさを味わうにふさわしい。また、あの店に立ち寄ろう。今日で店の名前くらいは覚えないとなあ。
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強くなくていい 弱くない経営の仕方もあるのか
今の世の山頭火も、やはり放浪する 山口県内にいることが随分と少なくなってきた。とにかく講演活動が増えた。それでも昨年度よりは少なくしてこの有り様。3週間に2回程度の依頼講演会。さらに、夢のみずうみ村主催の講演会が重なる。「足し算・引き算の介護」研修(全国21位か所)と、「大規模通所介護施設講習会」が10回あり、すでに何回かは終了している。 施設の現場に居て、利用者さんとワイワイガヤガヤすることが好きで始めた事業がとんでもないことになってしまった。現場にいないことが多いとはなんたることか。何のため、だれのための「夢のみずうみ村」なのか。自問自答しながら旅は続く。私の、全国講演行脚は「お金をかけた山頭火の放浪」とでも称されるか。ずいぶん私は放浪した。 昨年、稚内の先、宗谷岬の隣の野寒布岬に立った。初冬の吹雪は案外と心地よかった。周辺にも、そこまでの道中にも、誰もいない先端の灯台。殺風景な原野。今ここで私が消えたら、誰も気づかない。頭の中に迷いの声。「このまま存在が不明になったら」。身震い。 同様な体験は沖縄でも起こった。石垣島で仕事。休養せよと、半強制的に、簡単に戻れない竹富島をスタッフが宿泊先に選んでくれた。南国の草木と石垣の間を歩く。全く人に出くわさない。道があるからジャングルではないが、うっそうとしている。ここでハブに噛まれても助けはない。スカイブルーの海に突き当たった。星の砂浜。砂粒が小さい。誰もいない。何もない。ただ海。素っ裸になって海に入る。浅いのに、流れが急で思わず沖に吸い込まれ流される。「ああこのまま南に流されていき、サメに食われるか」。やっとの思いで砂浜に戻る。遊泳禁止の立て札が目に入った。ここで私が消えていたら、捜索願が出て発見されるまでに何日かかるだろうと思った。身震い。 こうしたことを白状することは、決して、自分の後ろ向きの姿勢を見せるつもりではない。しかし、こういう漠然とした地に足がつかない感覚に昨今頻繁に襲われる。 経営者としての能力を自問自答するしかあるまい 「経営者はみんなそういう気持ちになりますよ」「トップの悲哀だ」、と札幌の社会福祉法人理事長は私につぶやいた。そうだ。私は多くの仲間、素敵な職員集団に支えられているのだ。先陣を切る立場とは、自問自答する立場なのだ。当たり前だ。そう諭された気がした。感謝。組織経営運営10年。徐々に重荷になってきたのだろうか。私は、どうも経営者の器ではないような気がする。 地に足をつけずに全国を飛び回っている間に、徐々に崩れ消え去っている自分自身があるのだろう。それは、人間と人間が交流する渦中に溢れる「泥」のようだと表現できる。人間はそういう泥ぼこりや、におい、感触を通して、自身の足の落ち着き場所を固めて仕事をするのだろう。マウンドに立つピッチャーが、投げ始める前に、マウンドの土をスパイクで蹴って、自分の足に合うように調整する。それに似ている。意識的に足固めを行うピッチャーように、無意識に自分の足に合うように「泥固め」をすることが必要なのだ。私は放浪することによって足場を固める時間と機会を失ってきたのかもしれない。反対に、放浪することによって、足場を固める意識を磨いているのかもしれない。 私がいない夢のみずうみ村をスタッフはしっかり守っている。発展させてくれている。しかし、私自身はただ不安の中にある。「村」は私の足底になじまなくなってきつつある。悲しい事実である。私は何をするため、誰のために夢のみずうみ村を始めたのだったろう。 今、関東で夢のみずうみ村をつくるべく奔走している。その渦中、夢のみずうみ村応援団長だと私が勝手に思いこんでいる内閣府のA氏にこっぴどく叱られた。札幌市内を走るタクシーの中で携帯にかかってきて、タクシーを降りても路上で20分程度話は続いた。 「お前一人で何をやっている」「勝手に奔走するな」。言葉は厳しく速射砲。全く反論できなかったし、そのつもりもハナからない。鼻水交じりの涙。私も夢のみずうみ村も、A氏の発想についていく覚悟は不変である。頭からすっぽり「私」は消えた。 しばし呆然とし、遅い昼飯を味噌バターコーンラーメンで済ませた。札幌ラーメン横丁「ひぐまラーメン」は7度目の訪問。人気の店でこれまでラーメンにありつけたのは4回だけ。待っている客が路上に溢れ、店に入れずラーメンにありつけたら好運という店である。食べたのは4勝3敗。今回で勝ち越した。ラーメンで少し気分は落ち着いた。 やがて、私の元に、電話やメールが殺到した。A氏が「藤原をなんとか支えろ」と関係者に檄を飛ばして結果であることはすぐに察しがついた。無性にうれしかった。見捨てられていないという実感。一人ではない。 関東での事業展開は、事前に情報(「夢のみずうみ村」ができる)が浦安市で公報されていたため、開設は明白。しかし、資金調達は立ち往生という現実に眠られぬ日がずいぶん重なっていた中でのA氏の檄であった。人間はおかしな動物だ。その日以来、少し眠ることができ始めた。具体的にはまだ資金調達の明かりは見えていそうで確定していない。しかし、安堵感がある。 突然、A氏と酒を交わす機会が生まれた。久しぶりだ。あの激昂した中味にはまったく触れることなく時間は過ぎ、最後に強く握手して別れた。夢のみずうみ村は間違いなく全国に生まれ始める。そう、また実感した。 地に足がつかない放浪ではあるが、しばらくは、関東の浦安辺りで、しばし、止まるであろう。少なくとも1年は拠点をそこにおいて、初心にもどって夢のみずうみ村をけん引したい。そのことに没頭せざるを得ない。夢のみずうみ村の命運がかかっているからだ。 羽田からの帰りの機内で、これを書いている。ずいぶんと長いブログになった。私はもう、このブログにしか語りかけることができない。これを通じて多くの仲間や職員に語りかけよう。ありのままに。 みんなから見捨てられていないという実感が私を安堵させた。A氏と酒を交わしたこの日から私は夜ぐっすり眠れるようになってきた気がしている。 京都駅で北陸線「金沢行きサンダーバード」を待っている。0番ホームに風がいつもより多く、きつく、吹き去っていく。それが、案外心地いい。ああ今日も僕は生きている。
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