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63歳 4速ギアで突っ走っております

北海道手稲駅 二階改札口前のベンチ。零下3度の冷たさを心地よく感じさせてくれる日差しを浴びてこれを書いている。機内で書いた原稿を最終校正してブログに公開しようと思っている。本来、このブログは、飛行機の移動中に書いている。短い時間の過ごし方に適しているからだ。原稿を書くことが余暇になってきた。書くことが嫌いではないので、書いたものが日記ではなく、直ちに公けになるというのが心地いいのだ。自分の生きざまを第三者に知っていただくことは悪くないなと、このブログコーナーができて感じている。  人生63年、今ほど忙しいことはない。いや、あった。20代の児童養護施設時代だ。朝6時から夜中12時過ぎまで忙しく走り回っていた。子どもたちに振り回されたり、私が振り回したりしていた。しかし、あの時代と質が違う忙しさなのだ。自分の人生の一コマ、しかも、人生で今のところ最も忙しい昨今、一つ記録しておくことも悪くないなと思った。来年の自分の行動力とどう異なるか、衰えていく自分の体力や思考力、行動力を知る基準にしよう。おそらく、これほど忙しいことは、まず今後あるまい。新聞にある「首相の今日の予定」ばりに、細かく記録しよう。何年か後に、動けなくなった自分がこのブログを読んで懐かしむことができる、そう、自分のために記録しよう。 私のシステム手帳の忙しい時期には、他人には見分けがつかないほど真っ黒になっている。白い部分があるとすれば、その日、その時期は、通常業務以外に動きが少ないか、何事かに集中的している証だ。真っ黒だと、移動や打ち合わせ、面談、講演会などが目白押しの日となる。講演会で司会者の方が、「お忙しいところお越しいただいて・・」と決まり文句のような前置きがあるが、実際本当に忙しい。しかし、どの程度で忙しいかは人によって異なる。本人の自覚の問題だ。よく、若い人にこう語る。「君は今、車のギアで言うと、どのギアにレバーを入れて暮らして(仕事して)いるかね」と。私自身は、昨今、4速から5速の間を行ったり来たりして走っている程度の忙しさだ。無論停車時間は全くない。おそらく、5速の忙しさとは、まったく思考する時間なく走りまわっている状態だろう。そうすると、今の私にはまだ余裕がある。忙しいからこそ、ぼっとする暇がある。 (手稲の山並みの雪化粧を見ながら、札幌行きの電車を待ちながら、お尻が冷えてきたベンチの椅子を意識し始めてきた。こうして文書を読み、書き直していることが、自分らしくていいなと思える。くそ寒いのに・・・。) 私は、千葉県浦安市に始めた「夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター」の専従の仕事を、11月から少しずつ離れ、講演会などの日程を入れ始めた。同時に、新たに都区内で公募されている高齢者センターの委託事業に手を上げ、その追い込み事務や、愛知県高浜市で始まった「健康リハビリ巡礼札所事業(健康自生地事業と呼び直している)に翻弄されている。これまでは、朝8時15分には浦安デイサービスに出勤し、階段や、テーブル、椅子拭き、利用者さん宅へのお迎え、9時半過ぎから、10人くらいの利用者さんへの「ほぐし」(上田法と呼ばれる、こわばりをとる手技)を一日行う。午後4時以降は、送迎か掃除を18時ころまで行い、その後、事務作業や打ち合わせ等を行う。早く帰れる日はまずない。遅くなる時は必ず、出前を取り、残っている職員全員と一緒に食べる…。そういう日常を半年続けてきた。11月に入り、現場から徐々に「フジワラ」を消そうとしている。職員諸君が育ちつつあるからだ。こまごまと、いつまでも私が語っているようではだめだ。みんなが伸びない。よって、11月から、私は、別の忙しさの中に身を置くことにした。 <11月1日から、今日12月16日までの藤原の一日> 11月1日 午前中、浦安デイサービス勤務。午前中のみ「ほぐし」担当、14時 区民大学の江戸川大学で講演、20時 羽田発 22時45分 那覇着 23時リッチモンドホテル(那覇での常宿)泊 (2日)8時30分 琉球リハビリテーション学院出勤、10時 理事会、16時 教務会議、夜、いつもの加藤食堂。24時コスタビスタホテル(学校近くの常宿)泊 (3日) 9時30分 開店を待って沖縄国際通りの「高久レコード店」で、いつも通りレコード(放送で使用)を買い、12時半からレギュラー出演番組「ゴーインにマイウエイ」をラジオ沖縄で収録。(毎月第2日曜日午後10時から11時に放送、沖縄本島から、離島、与論島まで電波が届く)。22時30分 リッチモンド泊 (4日)9時40分 那覇発、福岡11時45分着。午後1時から山口コメディカル学院で「対人接触法」授業3コマ、夜7時から「夢のみずうみ村山口」で幹部会議 その後会食 23時30分 萩自宅泊 (6日)7時6分、新山口発、名古屋経由で、静岡県富士市交流プラザで講演、終わって16時31分、富士市発で日帰り、21時15分新山口着、夢のみずうみ村山口デイにて、デスクの文書類整理 24時 萩自宅泊 (7日)10時30分 宇部市健康福祉センターで講演 14時20分 山口コメディカル学院で「対人接触法」講義2コマ17時まで。 19時55分 山口宇部空港発、21時25分 羽田着 23時 浦安自宅泊 (8日) 9時 田中設計舎、田中章一級建築士と打ち合わせ、その後現地の世田谷区内の施設見学と検討会、 18時 浦安デイサービスセンターに戻り、職員採用面接 22時 浦安自宅泊 (9日)8時15分 浦安デイサービスセンター出勤 理事長室にこもって高浜市の事業計画原案づくり 12時30分 茅野市市長ご一行見学案内 その後、世田谷夢のみずうみ村打ち合わせ事務作業 23時 浦安自宅泊 (10日)午前中、浦安デイサービス出勤 、理事長室にこもって取締役会資料準備 13時 夢のみずうみ村本部ミーティング 16時 H国際大学理事との面談 18時 株式会社夢のみずうみ社取締役会 その後食事会 23時30分 浦安自宅泊 (11日)8時15分 浦安デイ出勤 世田谷区夢のみずうみ村改装建築図面の検討打ち合わせ 12時15分 羽田空港発 13時15分 庄内空港着 鶴岡市社会福祉協議会講演会にて講演 終了後接待 21時 鶴岡泊 (12日)タクシー運転手の勧めで、空港近くの温泉(名を忘れた)。のんびり。18時10分 庄内空港発、19時15分羽田着 浦安デイサービスセンターに戻り「木材調達日帰りバスツアー」の打ち合わせ その後職員と会食 22時30分 浦安自宅泊 (13日)朝から、東京都のはずれ桧原村に「木材調達ツアー」(送迎車2台、利用者さん・スタッフ総勢11名)。 19時 浦安デイに戻る 20時30分 浦安自宅泊 (14日)介護相談員指導者研修(昨年も同じ講演会をKFCホールで実施、場所は大阪、御堂筋線に乗って…と思い込んでいた) 7時 自宅出発 東京駅発新大阪行き乗車。京都あたりまで、車内で仕事。場所の確認を主催者に電話。「KFCホールは、御堂筋線でしたっけ?」と聞いた私に「えっ! 両国ですよ」と。真っ青。新大阪に着くなり、切符売り場に走る。7分後の東京行きに飛び乗る。結局、16時から18時までの2時間、両国KFCホールで講演。私がするべき4時間講演の半分の2時間分を、福祉自治体ネットワークの菅原弘子事務局長につないでいただいた。講演後会食。23時半 浦安自宅泊 (15日)8時15分 浦安デイサービス出勤 9時「夢結び」(スープ屋、就労支援事業)担当職員、岡田百代さんと電話打ち合わせ、「おかゆ」を冬メニューで出す相談 10時 ニュー大阪ホテル松田会長と面会と施設案内 午後 浦安デイサービスセンター勤務 18時職員面接 20時スタッフと会食 23時30分 浦安自宅泊 (16日) 浦安デイサービス出勤 18時、Vキューブ(テレビ会議システム)を使って、夢のみずうみ村が経営の3つの小規模多機能型介護施設(山口市、防府市)のスタッフを結んで「地域密着型サービスの在り方」検討会議 20時30分終了 23時 浦安自宅泊 (17日)8時15分浦安デイサービス出勤 15時15分羽田発、16時15分小松着 18時30分、白山市松任学習センターで講演会 いつもの「梶助」にて食事 (この様子はこのブログに以前書いた)。24時15分小松グランドホテル泊 (18日) 8時10分小松発 9時15分羽田着 10時半 中国新聞社取材、17時 フィンランドの新聞社取材 19時 Vキューブ会議(厚生労働省モデル事業委員会:山口デイ、防府デイスタッフとのテレビ会議) 20時30分 モデル事業の浦安デイの委員との会食 24時30分 浦安自宅泊 (19日)8時30分 浦安デイサービス出勤 17時12分東京発 18時56分長岡着 19時 講演会主催者の前日接待 21時30分 長岡泊 (20日)上越市校長会主催講演会 13時12分 長岡発 東京戻り 20時 浦安自宅泊 (21日) 8時15分 浦安デイサービス出勤 9時 千葉県立大学 小林毅作業療法士ご一行様と面談、施設見学案内 その後モデル事業資料づくり 18時 厚労省モデル事業委員会浦安内部準備会 20時 浦安モデル事業員と会食 23時 浦安自宅泊 (22日)8時15分 浦安デイサービス出勤 10時 三菱UFJ銀行調査員取材 16時 浦安運営会議 19時 豊田工業浦安所長、現場監督との感謝宴会 23時 浦安自宅泊 (23日)8時15分 浦安デイサービス出勤 9時 フリージャーナリスト取材 14時15分 羽田発 16時山口宇部空港着 17時 夢結び おかゆづくり検討会 萩自宅泊 (24日) 山口デイサービス出勤 9時 知性アイデアセンター取材 13時 田中設計舎打ち合わせ 16時 夢結び改装打ち合わせ 19時 本部ミーティング 22時30分 萩自宅泊 (25日) 山口デイ出勤 10時 山口県健康づくりセンター講演会 13時30分 弘前医療福祉大学理事長、学長面談と施設案内 13時 本部ミーティング 18時 社労士事務所打ち合わせ 20時 夢結びおかゆ試食会 22時30分 萩自宅泊 (26日)8時 山口デイサービス出勤 10時半 かず君(1歳半、脳性まひ)上田法訓練(月一度、ご両親、祖母に上田法指導、間もなく1年くらいになるか?) 16時50分 山口宇部空港発 18時15分 羽田着 19時30分 浦安自宅泊 (27日) 8時15分 浦安デイ出勤 10時 浦安市社会福祉協議会講演会 浦安デイ午後出勤 世田谷夢のみずうみ村計画原案作成 21時 浦安自宅泊 (28日)8時浦安デイサービス出勤 一日、世田谷夢のみずうみ村原案づくり 18時 厚労省モデル事業浦安委員会 終了後メンバーと会食 22時30分 浦安自宅泊 (29日) 11時 東京発 新大阪着 14時50分 介護相談員指導者研修会 終了後主催者と会食 22時30分 大阪泊 (30日) 9時30分 新大阪発 名古屋経由 高浜市役所 16時 高浜市健康自生地づくり委員会 終了後会食 23時 刈谷イン泊 (12月1日) 8時30分 中部国際空港発 11時 那覇着 12時40分 就労支援農業用地下見 16時 琉球リハビリテーション学院教務会議 琉球リハ儀間理事長と会食 22時 コスタビスタ宿泊 (2日) 8時30分 琉球リハビリテーション学院出勤 20時10分 那覇発 21時45分 福岡着  22時 西鉄イン泊 (3日) 8時30分 博多発 10時30分 日本脳神経学会看護協会講演会(山口大学医学部) 16時 夢結びレシピチェック  23時 萩自宅泊 (4日)8時山口宇部空港発 9時25分羽田着 11時 浦安デイサービス出勤 堀田聡子厚労省モデル事業委員インタビュー 14時 厚労省モデル事業委員会 20時 山崎史郎社会援護局長、大島一博総理秘書官、浦安モデル事業委員、外部委員総勢14名会食 24時15分 浦安自宅泊 (5日)8時15分 浦安デイ出勤 14時50分 介護相談員指導者研修(KFCホール:両国) 20時 浦安自宅泊 (6日)8時15分 浦安デイ出勤 9時 ニュー大阪ホテル松田会長浦安デイ見学案内、打ち合わせ 14時 世田谷夢のみずうみ村計画案設計打ち合わせ 20時 浦安自宅泊 (7日)8時15分 浦安デイ出勤 一日 理事長室にて 世田谷夢のみずうみ村建設最終原案検討打ち合わせ 20時30分 浦安自宅泊 (8日)9時 厚生労働省老健局担当官と打ち合わせ 13時 浦安デイサービス関連買い出し 15時 浦安デイ勤務 18時30分 豊田工業忘年会出席 22時30分 浦安自宅泊 (9日) 6時10分 羽田発 9時5分那覇着 高久レコード店にてレコード購入 11時 ラジオ沖縄「おはようインタビュー」( 12月第3週月曜から金曜、朝9時から30分放送番組)収録、13時「ゴーインにマイウエイ」収録 15時 琉球リハビリテーション学院出勤 20時 加藤食堂 23時30分 コスタビスタ泊 (10日)終日、片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯コンペ 準備 沖縄かりゆしホテル泊 (11日)片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯コンペ開催 沖縄かりゆしホテル泊 (12日) 9時 琉球リハビリテーション学院理事会 18時 那覇空港発 19時15分 鹿児島空港着 夢のみずうみ村アルテン(フランチャイズ)の新規計画予定建築物視察 19時 同施設吉井理事長ほかと会食 21時 加世田旅館泊 (13日) 12時30分 鹿児島空港発 13時55分 羽田着  14時30分 浦安デイ出勤 20時 浦安自宅泊 (14日) 8時15分 浦安デイ出勤 18時 世田谷夢のみずうみ村計画原案作成事務 18時 Vキューブによる小規模多機能型会議 22時 浦安自宅泊 (15日) 8時15分 浦安デイサービス出勤 終日、世田谷夢のみずうみ村計画原案作成事務(16日)9時 羽田発 10時35分 千歳着 手稲地区介護事業者連絡協議会講演会 参加者と会食 21時30分 手稲ステーションホテル泊 (17日)12時 北海道オイラーク(夢のみずうみMILKシステム導入施設)メンバーと会食 17時千歳発 18時40分 羽田着 機内でこれを書いている。   手帳を見ながら、思い出して書いているだけでも、すさまじい日程をこなしていると思うが、63歳今が最も社会に必要とされているのだという実感がわいてくる。がむしゃらに私は走り続けたいと思う。嬉しいことに、夢のみずうみ村は、私の後ろに、職員がついてきてくれている。しかも、私からはっきり見える位置に、幹部みんなの顔が見える。勝手に私が激走しているのだが、ついてきてくれている。そこが我が村の強いところだと思っている。63歳 4速ギアで突っ走っている。

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第2回 片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯in沖縄 

「片麻痺になられても、これまでやっていたゴルフができますよ、さあ滅入ってないで、ご一緒にやりましょう」という意図で、軽々しく開始した今大会。今年も昨年同様雨模様の沖縄、久志岳カントリークラブで24名がプレイ。「晴れ男」藤原の面目躍如たるところで、昨年同様、かろうじて雨を逃れて大会を開催できた。参加者のうち、障がいを持たれた方の参加が昨年より少なかったので、正直なところ、私はこの大会を開催する意味を見失っていた。障がい者ゴルフがそれなりに普及している様子であり、様々な障害をお持ちの方が、ゴルフを日常的に親しんでおられる現状を知った。わざわざ、夢のみずうみ村でこうした大会を開く必要はないではないか。前夜祭でお会いした「ジャパン・ハンディキャップゴルフ協会」理事の駒井清さんの一言で私は迷いから覚めた。彼は工事現場9階から1階に落ちて、命は取り留め、右下肢大腿切断にもかかわらずゴルフの名人である。彼の一言が私を変えることになる。 「世界には様々の障がい者ゴルフ大会がある。徐々に疾患別に大会が開かれる傾向になっているような気がする。しかし、『片麻痺』と冠がつくものはどこにもない。やめる必要は全くない。いや、もっと積極的に、『片麻痺ゴルフ』を拡げていこう」という話だ。昨年、片麻痺ゴルフを社会運動として全国に広げるきっかけにしようと、声を高らかに語り、大会を終えたのに、今年は、その広がりを作ることが結果としてできなかった。だから、落ち込んでいたのに、この、駒井さんの一言に元気づけられた。「たとえ、参加者一人になっても、この大会はやろう。そのための資金作りは必死に考えよう」。そう決意を新たにした。  片麻痺の方でなくても、我が夢のみずうみ村ゴルフコンペは誰が参加してもいいのだ。脊髄小脳変性症のKさん。最近、転倒されて、それまでかろうじて歩行器で移動しておられたのに、それができなくなったので、楽しみにしていたこの大会を欠場されるとおっしゃったのである。「何があっても、お連れいたします」、そう申し上げたら、感動して参加を決意していただいた。我々の方が嬉しかった。スタッフと共に現地入りしていただき見事18ホールラウンドされた。2200歩、歩いたとのご報告を聞いた。ただただお見事というほかはない。 パーキンソン病のKさんは、普段、歩行器を押しながら移動されるのだが、カートと杖を使ってラウンド。この大会の特別ルール、ボールの落ちた地点を延長して、カートの脇から打ってよし、を適用されれば、ラウンドがもっと楽なはずなのに、そうしたくないとおっしゃる。正式ルールでいいとのこと。球が落ちた地点まで歩いて行かれて、そこでプレイされた。結果、ハーフで中断された。すさまじい歩行距離である。日頃の夢のみずうみ村での歩行距離も相当だが、ここは目に見えにくい土地の凸凹があっての距離だ。来年は、18ホールを目指しましょうと約束。  私は、最下位だった。昨年初めてゴルフという競技を行い、ハーフでやめていた。しかし、今年は見事18ホールラウンドできた。しかし、途中、昨年同様、球がゲートボール状態、転がる専門で、空中を飛ばないのだ。他のメンバーが、カキーンと快音残してはるか向こうへ跳んでいくのに、私だけ、ちょっと前に転がり、何回も何度も、ちょこまかと打ち続けないとグリーンの上に行かないのである。いささか、飽きてきた。全く面白くない。しかし立場上そういう顔は絶対見せられない。そんな時は掛け声だけ大きくなる。それが逆にむなしさを助長させる。それでも、18ホールを完遂することが目標だったので、それなりに必死。すると、16か17ホール目あたりの、2打目あたりから、なんだか要領をつかめた感じがし始めた。球の下あたりをしっかりと叩けるようになったらしく、ボールが宙に浮き始めた。それが嬉しいのだ。しかし、どうだろう、感触を覚えた気になれたが来年まで持ち続けられるだろうか。間違いなく、いや、おそらく、来年の第3回大会まで、ゴルフには無縁で、1年後のこの大会に、今年同様参加するのだろう。クラブを持っていないので、打ちっぱなし練習場に行くこともできない。練習場ではクラブを貸してくれるのだろうか。行く時間がないこともさることながら、万が一、行ったとしても、今の状態では恥ずかしくて行けそうもない。打ったつもりでクラブを振っても空振り。せいぜい、50、60センチくらい先にコロコロとボールが転がる様を、他人には見せられない。身の程を知っている。だからこそ、この大会は貴重なのだ。ゴルフに無縁の方にも、門は広く開かれている。ハンディーとやらが72で最下位だった私。また来年も出場したいと本心から思えるようになってきた。 自己申告してそれに一番近い人が表彰されるというオネストジョーンという企画がある。58がここのゴルフ場の平均というのか。すべてパーで回るとそのスコアになるらしい。そいう設計なのだ。ちなみに私は153であった。自己申告は138だったのに散々である。 来年、私の結果を参考に、多くの方がやってこられることを願ってやまない

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現代版「山頭火」の訪ねる食べ物屋

山頭火は放浪の歌人だ。この10年間くらいの私は、まさにお金をかけて放浪する山頭火だ。飛行機、新幹線、レンタカーなどを利用し、ほぼ全国を巡った。まだ行ってなくて訪れたいと思っている場所は、下北半島、紀伊半島先端の潮岬、三宅島、礼文島、与論島ぐらいである。ずいぶん、周ったものだと、今、ANAの機内で、中部国際空港から、那覇に向かう機内の「翼の王国」を見ながら思う。気が付いたら「なじみの店」ができていた。そこに行くと必ず訪れる「食べ物屋」さんだ。いろいろあるが、とりあえず3か所を紹介したい。 白山市(石川県)に講演で出向かなくてはいけなかった。前日、小松空港から白山市に移動してホテルに泊まる主催者の誘いを断る。小松グランドホテル近くの日本料理屋「梶助」に行くからだ。北陸に出向く時は、「梶助」に行くと決めて宿をとる。そのいきさつは以前のこのブログに書いた。おそらく「梶助」に行くのは5回目ではなかろうか。 羽田発最終便で出向いたから夜10時過ぎ。目指す「梶助」の玄関に紙きれ発見。「予約客の方だけになっております」と。期待してわくわくしてやってきたのに、愕然。店をそっと覗く。全く偶然、幸運だった。若旦那、太郎さんがこっちを見ている。目が合った。私の顔を見つけて、さっと手を挙げ、おいでおいでをしてくれた。嬉しかった。入っていくと、二つある私の定席(と思っている)、カウンターの右端(もう一席はカウンターの左端)が空いていた。大将がいない。県から長年の功績で表彰されて夫婦で出かけているとのこと。一人で切り盛りしているから予約客優先、なじみと予約客OKという感じ。後からわかったのだが、息子、太郎さんが初めて、ひとりで店を切り盛りする日だった。 いつものように今日のおすすめをいただく。生の「いくら」が出た。赤く塩気があるものと思っていたが白い。昆布だしの中につけたものというが、「いくら」の真の味とはこれだと知らしめられた。海の匂いがして香ばしい。「いくら」のイメージが全く変わった。次に、3種類の蟹が小さく盛って出てきた。以前、札幌のカニ専門店で、たらふく食べ、「蟹の味」は知り尽くしたと思ったが大間違い。たらふく食べず、僅かだがしっかりとした味をじっくり味わうことを「梶助」で教えてもらった。こういう心境は、自分が老いた証拠だと実感しながら味わう。私の腹具合に応じていろいろ出る。それが快適なのだ。前々回、隣に座った客は2時間かけてここにいつもやって来ると言われるフランス料理店のコック長だった。「自分の舌を保つためにここに来ます」と言われた。料理とはそういうものであり、「梶助」はそういう「店」なのだ。今日は左カウンターに滋賀県から来たという4人ずれ。同業者のおもむき。「看護」「介護」という言葉が飛び交うからわかる。太郎さんが勧めてくれたので「天狗舞」という地酒を冷で頼む。2合瓶だそうだ。隣の方々に勧めればいいかと勝手に決めて注文。何年ぶりだろう、酒を自分で注文して飲むとは。中ジョッキ生1杯、赤ワイングラス2杯が昨今の限界である。うまかった。おちょこで5杯。お隣さんに声をかけ注ぐ。すぐに仲良くなった。そこに大将ご夫妻が帰店。一気ににぎやかになった。11か月ぶりに「梶助」に来たのだが、いつも来ているような錯覚に陥る。なぜ、ここが和むか、自分で分かっている。料理がうまいことは当然だが、大将が私の親父に似ているのだ。ここに最初に偶然舞い込んだ時から感じていた。細い目、細長い顔(大将のほうが若干肥っておられる)、よく似ている。我が親父は口数が少なかったが、酔えば饒舌だった。私が年を重ねるにつれて親父がいろんな場面で浮かんでくる。だからだろうか「梶助」にきて、大将や太郎さんと、カウンターで向かい合う。心地いいのだ。帰りにご夫妻と太郎さん3人がそろって玄関先まで見送ってくださった。今度来る時は、萩焼の皿、徳利、お猪口を自前で持ってきて「梶助」におくことになった。楽しみだ。   沖縄、宜野湾市に「加藤食堂」がある。小柄な若奥様ママと、坊主頭だがまろやかな顔立ちのマスターのつくるソーセージや魚・肉料理が実にうまい。一番は、今日さっき食べてきた、ホタテとねぎのキッシュ、チーズのデリス・ド・ブルゴーニュがまずお勧めだ。ピザも手づくりでうまい。客席は24、5席程度。沖縄に来たら、沖縄料理と決めていた。同じ宜野湾にある沖縄料理「あしび島」の常連だった。以前、夢のみずうみ村の利用者さんが沖縄旅行に来られた時もここを借りきった。薬膳の汁物(名前をいつも忘れている)が必ず出てきた。これぞ、沖縄という雰囲気の店で女将にはよくしていただいた。そこを振り切っての常連となるほどの「加藤食堂」。最初は、琉球リハビリテーション学院の理事長、儀間君が「家の近くにいい店がある」と連れって行ってもらったのだ。以来、ほとんど毎月訪れるようになった。夢のみずうみ村で忙しいが、琉球リハビリテーション学院長の仕事にもついているからである。2回目に伺った時、遅れてくるメンバーから携帯を受け、店までの道案内をする場面となった。「ここの店の名はね、佐藤食堂だよ」と私が口走った。目の前でコップを洗っていた(?)ママが、そばに寄ってきて、間髪をいれず、「惜しい!」と一言。びっくりした。「このママさんの感性が素敵だ!」と。それが、僕がこの店に通い続ける原因になった。おそらく、普通の感性を持った人なら、店の名前を間違えているわけだから、「佐藤ではなく加藤食堂ですよ」と教えてくれる会話になるはずだ。「加藤食堂ですよ」と、正確な名前をそっと教えるのが通常だろう。それが、このママの口からとっさに出た言葉が「惜しい!」なのだ。こうした感性は天性のものだ。意識しては絶対にできない。そういう人が私は好きだ。この「瞬間しびれた話」を、何度も何度もここに連れてくるメンバー達に話をする。その度に、小顔のママの顔がゆるむ。微笑みながら、実に忙しく店を左右に走り回る。ご主人と二人で切り盛りしながら、客は予約電話を入れないと席の確保が難しいほど盛況なのだ。こうした感性を持っている人間が身近に欲しいといつも願う。そうは簡単ではない。このエピソードを店で赤ワインを飲みながら、学院の理事や職員にいつもくどいくらい語る。そうなってほしいと願うからだ。カウンターの中で料理を作って忙しいご主人もいつもニコニコ、ママも微笑む。この間合いが実に奇妙でもあり素敵だ。国際通りの高良レコード店で、いつものラジオ沖縄の番組で使うレコードを選び、ちっかうのコーヒー店でこの一文を推稿している。今日から沖縄2泊。今夜行こうかな。  釧路の「幣舞(ぬさまい)橋」の先、釧路川河口に「岸壁炉端」がある。4度しかそこに行っていないが、天気予報で「釧路」が画面に出でるたびに思い出す。最初に行ったときは、冬だった。岸壁に、サンマ船が横付けされ、波音できしんでいた。その脇に、周囲を厚い透明ビニールで囲んだ細長い空間。長椅子に座ると膝のあたりに網がくる高さの囲炉裏が30近くも並べられ、4人から6人くらいが1つの炉を囲む。大きな網が炉の上にかぶされており、そこに、自分の好きな海産物を買ってのせて焼く。金券を買い、北海の海産物をずらり並べた店8店舗(?)が数珠つながりに細長く並び、客は好きな店で食べたいものを買う。さんま、ホッケ、ジャガイモ、カニ、何でも焼く。一人の私は、どなたかの網のそばに座る。たくさん焼いている脇に買ってきたものをのせて焼き始める。隣に座った若い二人連れは全く無関係に喋り捲っているし、真向いのおっさんたちも、酔って大声を出しているが、何も気にならない。私が間違えて、お隣さんのジャガイモを食べてしまった。「さんま」と物々交換。酔狂だ。札幌生ビールが、冬でもうまかった。秋口と夏場にも行ったが、ここは冬に限ると思っている。夏場は、ビニールも船もなかった。するとここは今一つだ。淋しくなれないのだ。ここに一人来て、岸壁脇の、この囲炉裏そばに腰かけホロ酔う。波間に漂うネオンを見ながら、持ってきたCDを聴きながら、何も考えないで酔う。淋しい。その淋しさに酔うためにここに来るのだ。いつのころからか、私は、こういう人ごみの中に紛れ込み、一人で「淋しさに親しむ」ことが好きになった。誰かとワイワイすればいいではないかといわれるかもしれない。それは付き合いであって、私の気が休まるというのとは違う。ひねくれ者なのだ。3回目に来た時確信した。4回目は利用者さんと来た。知床・釧路・根室と巡った第8回夢のみずうみ村旅行である。利用者さんは席に座っていただき、スタッフが店を走り回りながら、魚や、貝、ビール、ジャガイモなどなどを買って網にのせまわった。片麻痺があり、車椅子も利用する我々の一行30人は、縦横無尽に動き回った。それはそれで実に快活な「岸壁炉端」だった。

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