藤原茂プロフィール
1948年山口県萩市生まれ 作業療法士 NPO法人夢の湖舎理事、株式会社夢のみずうみ社相談役、琉球リハビリテーション学院長、日本作業療法士連盟相談役
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わがマドンナ から 炭鉱の子守歌
久しぶりに JALに乗った。帯広~羽田~那覇。ANAではなくなってしまった「日本の歌」の機内オーディオ。JALの2月版に島倉千代子が登場していた。「愛するあなたへの手紙」という新曲だそうだ。聞かざるを得まい。私は、島倉千代子に育てられたからである。聴いて、淋しくなった。 幼いころから、正式には、小学校2年生ぐらいではなかろうか。定かではないが、小さい頃の思い出だ。 島倉千代子の歌は「泣きべそソング」といわれるくらい、涙の歌、淋しい歌、悲しい歌、が多い。「星空に両手を」「恋しているんだもん」という明るい歌もあるが、若いころの私はあまり好きではなかった。小学生の私をして、心揺さぶられ、学校からの帰り道、田んぼのあぜ道のレンゲ畑の中に埋もれて、流れる雲の行く先を見ながら歌ったり、積もれた藁に埋もれて、一人彼女の歌を歌ったものだ。「からたち日記」「この世の花」「白い小指の歌」「思い出日記」「かるかやの丘」「思い出さんこんにちは」「哀愁のからまつ林」「他国の雨」。ほとんどの人が知らない歌ばかりだろう。さっと、今でも3番までしっかり歌える歌ばかりである。なぜ、これほど悲しい歌、さびしい歌を好んだのだろうか。自分でも今思うと不思議だ。小学時代から中学時代にかけての精神構築に深く影響していると今頃強くわかる。歌の力である。自分では心当たりがある。それは、「強くなくてもいい、弱くない生き方をすればいい」という拙著に書いた。 広島の中学校入学試験に不合格となり、地元萩市の市立第一中学校に中1の1年間だけ行くことになった。その時、だから、僕が13歳の頃。竹馬の友の堀君が「島倉千代子が結婚したぞ」と教えてくれた。こっそりと、芸能雑誌「週刊明星」を買って、白むく姿の島倉千代子を田んぼの中で、週刊誌の写真をちぎり、藁の上だったかどこか近くにおいて、夕方だったと思うが、先般の島倉千代子の「思い出日記」「白い小指の歌」を歌いながら泣いたことを、この歳になって、この機内で思い出す。感受性が強い自分であることを今更ながらに思い知る。それほど、我が理想の女性は島倉千代子であった。細面の彼女の結婚相手が当時、阪神タイガースの4番打者、藤本勝巳。ごつごつ男で、ブ男だと思った。以来、「美人は、ブ男を好む」が私の男女感である。 細面の女性が好みの女性であるとずっと公言してきた。モデルは若いころの島倉千代子である。当時はやっていた花王石鹸のコマーシャルのようにに細長ければいいというものではなく「うりざね顔」がいいのである。 中学2年生から、編入試験に合格した私は、単身、広島の中高一貫校に下宿して通うことになった。一人になると、無性に島倉千代子(の歌)が恋しくなった。 そこで、「蓄音機買ってほしい」と母に頼んだ。今の若い人は、蓄音機と言って何のことだと思うだろう。いかに私が年寄かが知れる。 「クラシックを聴くのならいい」との条件付きで、母は買ってくれた。面白いことに、ベートーベンレコード「田園」のLPつきである。なぜ、「田園」なのかはわからないが、以後、ほんの時々聞いた「田園」は「運命」以外に気に入っているクラッシックになったのだから、親の志は大事だし、三つ子の魂百までだ。 僕はと言えば、すぐに、レコード屋に行き、なけなしの小遣いで島倉千代子を買い続けた。自室の窓際で、よく、レコードをかけた。とりわけ、夕暮れ時や雨のしとしと降る日に、部屋の前の竹藪を見ながら聴いていた。面白いエピソードがある。 私の部屋の真下に住んでおられた若夫婦が、転居のお別れのあいさつに来られ、 「島倉千代子の歌、お若いのに、淋しい歌が好きなのですね。雨の日に私もよく聞きましたよ。」 と京都弁丸出しの丸顔の若奥さん。聴きたくもない歌を聴かせることが多かったとお詫びしたら、 「私も好きになりましたよ」と 社交辞令かもしれないが嬉しかった。島倉千代子が身内になったような感慨であった。 細表ですらっとしたウリザネ顔の島倉千代子は、今の彼女では想像もつかない。10代や20代の彼女は実にスマートで可愛いらしい。 同じJALの2月のオーディオの中に、花村菊江「潮来花嫁さん」がある。この歌も小学校2,3、4年頃によく一人歌っていたと思いだし、心きらめきだし、ブログに白状しようと書き出した次第だ。 島倉千代子は別格だが、総じて言えることは、こうした演歌の「さび」部分が、幼い自分にビンビン響いて、今の私の感受性を磨いたのではないかと確信している。 淋しがり屋であったと、自分で言えば世話はないが、仲間とワイワイやっている自分もいるが、一人でショボンとしていた自分もいた。小学校から無理して親が私学に通わせたおかげで、近所の友人はごく限られ、小学校が違ったので遊び時間も少なかった。竹馬の友がいないわけではないが、中高が一緒ではなかったので付き合いは少ない。思い起こせば、こうした幼少期に、演歌の「さび」が、我が人格形成に何か影響しているのだなあと思えてきた。今日聴いている島倉千代子の歌は、全く音域が狭くなり、声量もなく悲しい歌声だ。哀れが漂う。しかし、細面の若いころの彼女は私の永遠のマドンナだ。 島倉千代子が歌った「炭坑(やま)の子守歌」について触れておきたい。この歌詞は盲目作家で「幻の邪馬台国」の著者、宮崎康平氏の作だ。何度となく歌い涙を流した。私の「人間を見つめる意識の芽」をこの歌が醸成したのではないかと思う。また今日もここに思い出して見たくなった。残念ながら、レコードもCDも手に入らない。 1. 父ちゃん 今日も帰らんと 母ちゃん 炭坑(やま)で ボタ拾い 泣いて寝たやら ねんねこ妹 寝たら 寝たら 忘れよう ひもじさを 2. あんちゃん 今日も ザリガニ取りに 学校休んで 出かけたと 早ようお帰り しもやけ指が 痛い 痛い 日暮れの 風吹くに 3. 夕焼け雲は赤いのに 明日も学校へ ゆかれんと みんなの弁当を横目で 見ちょる 学校 学校 なんぞに 行きとうない … 続きを読む
カテゴリー: その他
小宮山洋子厚生労働大臣 防府デイ ご見学
小宮山洋子厚労大臣が2月25日夢のみずうみ村防府デイサービスセンターに見学に来られた。私より30センチ程度小柄でいらっしゃるが、スマイルは変わらず、美人アナウンサーでいらした当時の面影のまま、私の目の前に登場された。同じ年であると我がスタッフが教えてくれた。信じられないお肌の艶のよさだ。 一昨日と昨日、NHKテレビの衆・参と続いた予算委員会での映像で拝見していたので、強行軍での旅程であろう。テレビ画面からまさに登場である。 大臣は謙虚であった。利用者さんの前では、必ず、目線は、同じか下にするべく、腰をかがめ、床にひざを折り、低い姿勢を保持された。それがごくごく自然になされるのがすごい。うなずき、相づちを打たれながら話を聴かれる。この方はカウンセラーではない政治家である、大臣である。感動した。やはり私は小宮山洋子さんのファンでよかった。 小宮山大臣とは二度目の顔合わせである。そのことをお話したら、「当時は大臣ではなかったですよね」とお答えいただいた。日本アビリィティーズ社の伊藤会長の手合せで、晴海のビッグサイトの展示場でお会いしたのであった。それ以来である。 厚労大臣が、夢のみずうみ村に見学に来られること自体が画期的である。ありがたい。 見学の最中から、「利用者さんの笑顔が素敵ですねえ。表情が生き生き、皆さんされている!」 という発言を何度も耳にした。圧巻は、「食工房」と呼んでいる場所で、食パンをオーブンから取り出した瞬間の場面に遭遇された時だ。いろいろ利用さんと会話された。相当感激された様子であった。 利用者さんと大臣はあちこちの場面で会話を交わされた。パソコンを打っておられた方、麻雀ゲームをされていた方、パワーリハビリの訓練器具で手足の運動をしている方、パッチワークでバッグを作っておられた4人集団、園芸療法をされている方々、木工ろくろでお盆を作っておられた方など、ごく自然に会話が生まれた。利用者さんの方も、特別な振る舞いでなく、いつも通りの感じで語りあわれた。 大臣があれだけニコニコ顔で回られたことが嬉しかったですねと、山口県庁から付いて来られた役職の方も、また、マスコミ関係者の方々も、異口同音の反応であった。嬉しい限りである。 来年、世田谷で始める予定の「住民参加型通所介護施設」の話に及び、ご当地が大臣の選挙区であるということや、大臣のお供をしてきた厚生労働省秘書官が、私の中学高校の後輩であったことなど、「ご縁がありますね」という話になった。実に温かい見学であった。 今日の見学予定は、施設玄関で2時半にお迎えし、3時半に見学を終え、10分間、ぶら下がりというマスコミインタビュータイムをとり、3時40分にお帰りという、スケジュールであった。ほぼ予定通りで終了した。 それにしても、大臣が移動されるということはすさまじい警備である。大臣にいささかなりともお怪我でもあれば、大変なことになるのだろう。驚くほどの警備体制が敷かれた。驚いた。玄関で大臣より1時間も早く警備担当の刑事さんが大勢着かれた。厳しいムードを醸し出される。警察の方だと誰もが直感できるような方たちである。福祉の現場の方では絶対にないとわかる。餅は餅屋だ。これでなくては警備にならぬ。 事務次長が、何度も、事前に施設内図面を提示し相談を重ね、どういう経路で大臣が回られるかを詳しく下見され、予定順路ができあがっていた。今日私は初めてそれを見た。 「順路通りにいかないと警備の方が困られますから、いいですね」と事務次長がうるさく私に言う。これだけ、がんじがらめに、厳しく言われると、私の虫が騒ぐ。「言うとおりにできるはずはないよ。現場は生きものなのだよ」と思い、思わず言葉を発した。 「見学は施設内だよ。道路上ではない。なぜそんなに警備する必要性があるのかい?」 事務次長に食い下がるが、県庁や労働局や警察の方々と何度も打ち合わせしてきた立場としては、私の発言は許されない範疇らしい。「だめです」と一言。当然の発言であったのだろうが、私には合点がいかないまま、大臣を迎えた。 「包丁や、のこぎりなどを棚の下に閉まっていただけないか」と警備のトップの方が、大臣がお着きになる直前に玄関先でおっしゃった。トップが、トップである私への依頼である。 「我が施設はバリアありの施設です。危険なものありの施設ですから、隠す必要性がないし、そうすること自体が理念に反します」 と申し上げた。それしか言いようがなかった。隠そうが隠すまいが、どうでもいいと瞬間思ったが、それは、絶対まずいと直感。譲れない私の部分であった。 「スタッフをその近辺に重点配備しましょう。わかりました。結構です」 すんなりご了解を頂いた。よかった。 もう一つ、警備の方からおしかり(?)を受けた。どうしても順路を変えて、食パンづくりのオーブンから取り出すグッドタイミングに大臣が遭遇されるようにしたかったのである。私は勝手にコースを変えようとした。すぐに警備の方から、「それは困る。事前にだから何度も打ち合わせをさせて頂いたではないか」と食い下がられた。「事前の順路案に基づいて警備の方々,(総勢12名程度ではなかったろうか)それぞれに配置業務についているのだから、変更はやめてほしい」と言われた。 貴重な大臣のご訪問である。パンの出来上がり場面に遭遇されるか、パンを取り出した後の、においだけが残るオーブンを見て、そこを通過されるか。私は覚悟を決めた。 責任を私が負えばいい。 「すいませんが、コースを少しだけ、さかさまにしていただきたい」と申し出た。 現場のトップの方は、まさに刑事さんという凛々しい方であり、妥協を許さない厳しさを前面に持たれている方である。私は拝顔せず、ただ深く頭を垂れてお願いした。 良いともダメとも回答がない。そのことが彼の回答であると判断し、私はそのままコースを変えた。それが見事に図にあたり、ベストタイミングであった。パンが取り出された瞬間に、大臣が出くわすという展開となった。食パンの先生役である利用者さんの吉岡さんも、大臣にぜひ見てほしくて、必死にタイミングを図ってくださったとのことである 私は、あの気難しそうだった刑事さんに、このブログ上で御礼申し上げたい。事前相談し双方が確認したうえでの順路である。私は、その結果だけを事務次長から聞いてそれに従わなければならない立場でありながら、それを勝手に無視したのである。現場警備責任者の方は、当然、「それは困ります」とおっしゃらなければなるまい。それを無視した私を、無言で対処された。胸の中、腹の内は、相当煮えくり返るものを私が与えてしまったと察して余りある。その刑事さんは一番最後に村を離れられた。車で帰られる時、私はただただ感謝の気持ちで深く頭を垂れた。ありがたかった。警備される立場はかくあるものだと勉強になった。 大臣がお見えになるといっても、我が施設は、せいぜい、普段より丁寧に掃除したぐらいで、特別のことはなく、普段通り。当日の朝、利用者さんに、送迎車の中で「大臣がお見えになります。カメラや写真に写って困る方は、その旨おっしゃってくださいませ」と通常のマスコミ対策の手配。 大臣と一緒にぞろぞろ大人数が、利用者さんの活動されている場面に、ずかずかと入り込むので、その都度、スタッフがお断りを申し上げる。日頃から、見学者が多く、皆さん慣れておられるからだろうか。普段と変わらない。それが私は一番うれしかった。大臣もそういう反応でいらして、特別な感じではなく、ざっくばらんに、日頃の会話をされた感じであった。 「こういう夢のみずうみ村のような施設を、どんどんあちこちに作りたいですね」と、大臣がマスコミの方々に語っておられるのを、そばで聞いた。うちのような施設が本当にあちこちにできるといいなと今日も思った。 警備の方々も「尋常ではない施設」に大臣がやって来られたな、と、大いに実感を持たれたと思う。今日はそういう楽しい、素敵な日であった。
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帯広~沖縄の移動
マイナス11度の帯広から 沖縄に急きょ行かざるをえなくなった。予定変更は、多くの人間に迷惑をかけるが、これだけ手広く仕事を引き受け、展開していたら、致し方がないと思うのは私の勝手であろう。相手は相当困惑されるだろうし、私は信用を徐々に失っている。仕事の優先順位、行動の優先順位という判断を間違えず、即断することだろうが私は無能だ。流されてしまうことが多い。山頭火でいいと思い始めているから、益々信用を失うかもしれないが、私の人生はこのまま閃光のごとく朽ちていかざるを得まい。実際、夢のみずうみ村の腹心の部下はもとより、多くの現場スタッフに、十分な声や手をかけることなく、思い付きで指示したり、勝手に依頼したり、深く考えない一事を発して困らせたりしている。本当に、私は、望ましいリーダーたり得ていない。精進すべきだと反省。 2日前、常宿である、浦安の自宅から、浦安のデイサービスに40分立ち寄り、羽田経由で福岡。講演を終え、現地で主催者と懇談、宿泊。翌早朝、茨城土浦に向かい講演、終えて直ちに世田谷区で新しく始める予定の夢のみずうみ村新樹苑(仮称)にて住民説明会。終えて浦安のデイサービスで深夜まで会議。翌朝、羽田まで急ぎ帯広へきた次第。 昨日は、本別で講演会。宿泊先の本別グランドホテルを早朝出発。頬が切れるような寒さ。心地いい。レンタカーを飛ばして帯広空港に。360度白銀の世界は、心をいやすが、心曇る難題に追われて空港に向かった。左右一面の雪の中、直線がずっと続く北海道の一本道。凍っていた。 現在の私の行動、思考内容は、一貫性があるようでない。追い立てられているからだ。 夢のみずうみ村デイサービス3か所、小規模多機能型介護施設3か所、就労支援事業1か所、フランチャイズ施設4か所、琉球リハビリテーション学院長と山口コ・メディカル学院顧問。沖縄では、ラジオ沖縄の「ゴーインにマイウエイ」という番組(毎月第2日曜日夜10時から11時まで)を知念常光さんとやっている。来年7月をスタート目安として、世田谷区に、住民参加型通所介護施設を開始すべく区や住民と話し合ってゴタゴタ。愛知県高浜市の市長や市民と一緒に「健康自生地高浜」という“まちづくり事業”の推進、2年目に入り、住民40名と喧々諤々。山口県内に、農業を中心とする就労支援事業所と身体障害者の方々の入所施設を作りたいと動き始めた。職員の駐車場も限界、防府デイ、山口デイの増築相談。エルダー旅籠(介護付きホテル)、サービス付き高齢者住宅(夢のみずうみバージョン)の企画・建設案件を建築事務所と相談。厚生労働省のモデル事業は、スタッフが頑張ってくれているが、中味のチェック・思考に結構、時間をとられる。そうした中での、こうした合間に、講演会を引き受けている。さらに、今回の介護保険制度改定による対策検討。新しい評価法「精神機能評価法」のシステムづくりが急がれ、一人での思考はもはや限界。仲間の作業療法士諸君に呼びかけた。 これらのエトセトラが、現在、私が自分の身体と時間を使っているすべてだ。一貫性がないから、積み重ねが弱い。要は、いい加減なのだ。だけど私は必死で、目の前に与えられた課題、起こってきた難題に必死にもがき走り回り、最善を尽くすが、それがbestやbetterは望むべくもなく。badってこともあるかもしれないが、それを反芻することさえできない。決してこうした暮らしがいいはずはないが、今は坂道を走っている。立ち止まれない人生だ。立ち寄る先々での周りの多くのスタッフに支えられながら、何とかこなしている実態だ。追われながら、走りながら、現場を離れることが多くなっている自分が怖いが、ただ動いている。雑多な事象が起こり、想定内のこともあるが、想定外のことが年明けからあまりに多い。今年はどういう年になっていくのだろう。愚痴ってこれを書いているわけでもない。ただ書きたいから書いた。おそらく、帯広が寒いからであろうか。この冷気が、原点に戻れと問うているのだろうか。 マイナス11度から、沖縄は21度であった。そして今、沖縄から福岡経由で山口に戻る機内。博多は寒そうだ。
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1+1-4は-2
写真を撮る際に カメラマンが叫ぶ 「イチ(1)たすイチ(1)は?」と。撮られる側は、一斉に「ニー(2)!」と答える。いつごろからはじまった口上のだろう。「ニー(2)」と答える口元が、かわいらしいとか、愛らしい顔立ちになるとか、いろいろ聞いた。硬い表情が崩れることは実に素敵なことだ。 ちょっと話は変わるが、昨日から、明日まで、第4回上田法多職種認定講習会を浦安デイサービスセンターで開催している。その最中の昨日の朝、甥っ子で、脳性麻痺の平井裕太が亡くなった。重度ではあったが、母親(義理の妹)がしっかり訓練してきたおかげで、長生きをしてくれたと私は感謝している。ずいぶん、訓練した。ボバース法、ボイタ法、そして、私が上田法のインストラクターになってからは、上田法の訓練をしてきた。無念にも亡くなった父親(義弟)に裕太は似ていて、遊具を手で触ってにっこりしてくれた顔を私はいつも思い出す。ひげ面になっても、あの顔が私の頭から離れない。なぜなら、日本作業療法士協会が編集した「脳性麻痺」というビデオに、裕太が写っていて、それを授業で使って見るたびに、幼い裕太がよみがえってくる経験を重ねたからだろうと思っている。裕太がなくなっても講習会を主催する私は、明日の閉講式が終わる迄身動きできない。お通夜に参列できそうだ。 全く、無関係のような裕太の話かもしれないが、この講習会の中で、思わぬ出来事が偶然、ふと私の口から洩れた。それは、上田法講習会参加者の集合写真を恒例により、表玄関前で撮影する際の話だ。夢のみずうみ村の職員、井上君がカメラマン役で、「はいチーズ」と言ってシャッターを切った。その瞬間は何も思わなかった。いつも通り、誰かれとなく、そう大きくもない声で「ニー(2)」と答えた。 その後、施設内の部屋に戻って、グループ別の集合写真を上田法国際インストラクターの水上君がとり始めた。彼が「1+1は?」と、メンバー全員に尋ねる。一同、「2」と答える。さて、次のグループに移って写真を取ろうとした彼の姿を見ていた私の口から、なんということか自然に言葉が漏れた。 「イチ(1) 足す イチ(1) 引く ヨン(4)は?」 一同が 「マイナス ニー(2)」と答える。 素晴らしい。「ニー」と返事しているのだ。ただし、その前に、マイナスをつけている。それが却って、口の動きを滑らかにしていいのではないかと思った。 単純に「1+1は?」「2」で答えるのとどこが違うのだろう。 私は今、ここに、メールを残しておこう。「1+1-4は?」という、写真を写る際の掛け声を発祥させたと宣言したいと思い、ここに書き記す。裕太が亡くなったからだ。裕太が亡くなった記念に私は、これを日本中に広まることを願いたい。広めてほしい。裕太がどういう人間で、どういう生きざまをしたが誰も知らなくていい。ただ、「1+1-4」は 裕太の亡くなった日の翌日に生まれた。裕太の死をしっかり、自分のものとしておきたいがゆえに、叔父の私は、このメールをしたためた。 いつの日か、日本どこかで、いや、どこでも、「1+1―4は?」「マイナス2」が広がっていくこととを信じている。裕太の生きてきたこと、亡くなったメモリアルとして、「1+1―4は?」「マイナス2」をこのブログに記しておきたい。このフレーズは、平井裕太と藤原茂の合作である。
カテゴリー: その他
真っ黒な手帳
私のシステム手帳を除いた人は驚く。「これ? わかるのですか?」と聞かれる。その日の予定は、ボールペン、黒、赤、青サインペンが入り乱れ、最初は細かく書き込んだ予定が、ボールペンで横殴りで消されたり、〇で囲んだり、星印、米印がついたり、その上を、赤サインペンで覆ったり。これらの隙間を縫って、青サインペンで、ちょこっと、時間や、予定が入り込んだり。これぞ困ったというように、黒サインペンがそこいらを覆いつくしたり。それでも、どうしようもない日程が入り込むと、太赤サインペンが席巻して、覆い尽くしたり、隣のページまで入り込んだりする。書いた字を自分でも読めなくなったり、間違えたりすることもしばしば。スマートに、電子手帳や、携帯電話でスケジュール管理してはどうかというアドバイスを何度も受けた。しかし、このシステム手帳、すでに2代目であり、10年近くは使い込んだと思うが、これがいいのだ。重たいのがいい。ぐちゃぐちゃ・まっ黒けがいい。一目で、「今週は忙しい」「この辺りはまだ少し暇」とわかる。真っ白であれば、何も予定がない。来年3月末日までがすぐ見える。過ぎ去った日々を、この手帳の汚れ具合でいとおしむ。「ようがんばたなあ」と、自分に声掛けできる。これが、電子手帳だと、さっと、消えたり、流れてしまって味気ないどころかだ。まさに光陰矢のごとしで面白くない。私の日々は、過ぎ去っても、まだ、この手帳の中に残っている。だから、この手帳は離せない。常に、身の回りにおいている。スタッフはよく知っているが、この手帳をあちこち置き忘れ、慌てふためく。情けない。2日前小倉のホテル。一昨日、浦安の自宅。昨夜、ここ沖縄のホテル。どこに、自分は今いるのかすら手帳を見ないとわからないこともしばしば起きる。手帳は我が身である。3月下旬まで真っ黒だ。
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