藤原茂プロフィール
1948年山口県萩市生まれ 作業療法士 NPO法人夢の湖舎理事、株式会社夢のみずうみ社相談役、琉球リハビリテーション学院長、日本作業療法士連盟相談役
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日別アーカイブ: 2021年7月11日
夢のみずうみ村を祝す
親しかったかつての仲間の一人が、5年近く間が空いて突然電話をくれた。感激で終始涙涙で語り続けた。実はその前日にも、もう一人いただいていた。いずれも久しぶりであった。二人ともホームページを見て知ったから思わず電話したとのことであった。「ああ、私たちは、新しい門出をしたのだ」そう思った。 代替わりしたことの感動であったか驚きであったか。そろそろそうなるだろうと思っていた矢先だったのだろうか。私が、夢のみずうみ村代表を降り、新しい、片山社長、宮本理事長に、これからを託しスタートした矢先だ。 代替わりは実にいいタイミングで行われたと思っている。今しかなかった。黒字体質に転じた矢先だからである。負債生成部門を切り捨てることができ、わずかであっても、年間収支プラスに転じた組織体になった。微々たる収益であれ、収益を生み出す組織体であるという形で次世代に繋げられた。職員、株主、職員のご家族、そして最大は、利用者各位のおかげである。ただ、ただ、感謝申し上げたい。長い長い暗いトンネルを抜けた。 これを書く前、冷蔵庫にあったキュウリ3本の入った袋を取り出し、柔らかくなったキュウリをまな板で2センチ幅で3本全部を切り、フライパンに入れ、マヨネーズを大目にぶち込み、IHレンジで炒めた。朝飯だ。これまで、キュウリを冷蔵庫でしなびた状態にさせ処分したことが重なっていた。だったら、買わなければいいのにと思うのだが、野菜不足を懸念する私はつい買ってしまう。丸かじりしたいのだ。しかし、冷蔵庫の底に長らく眠らせてしまうのが常になってしまった。こうして、捨てられる直前の野菜を、私は最近無視できなくなってきた。キャベツ然り長ネギ然り。晩御飯を母と二人食べるが大体私が作るので冷蔵庫はよく目にするのである。 流し台の脇に、庭の日向夏(白い薄皮が甘くて宮崎名物の小ぶり蜜柑)の木から地面に落ちたものを拾って置いている。1つ2つではない。甘夏の木も庭にあり、ほとんど、落果(今年は雪害で蜜柑が凍みて苦みが残り被害が出た)。残っていたものを木から採って流しの脇に日向夏と並べて置いていた。それらが、朽ちるのだ。朽ちるのを私は、流しを使うたびに横で見ながら放置している。随分とごみ日に捨てた。ところが、今朝は、そのうちの一つの小ぶりの日向夏にふと触った。表面がぶよっとしていた。「ああ、お前もあとわずか・・・」と思ったらほっておけなくなった。ナイフで8つに小さくカットし、皿に盛った。この後、果汁を吸いたい。そして、ごみ箱に捨ててやりたい。 無生物や植物に命を感じ始めたのはいつごろからであろうか、ずいぶんとなる。 我が家の風呂の窓は常に全開にして入る。誰ものぞくものはないし周囲はありがたいことに畑である。浴槽の先の窓越しにザクロの真っ赤な花がいっぱいに咲きほこる。「おい、オヤジ!」と、その花に声掛けする。花はオヤジなのだ。 とある日の話。76歳で 20年近く前に亡くなった父が、風呂に入っていた私の前に、窓越しにふらっと横顔をのぞけて、「この木はザクロの木だ。機関区【勤務していた当時の国鉄長門駅機関区】の奴からもらってきたんだ、きれいな花じゃろう!」と、普段無口な父が唐突に私に語った。その一言が、毎年、毎回、この深紅の鮮やかな花を見るたびにわいてくる光景なのだ。今にも、窓からひょっこり父が出てくるのだ。だから、木に、葉に、花に語り掛けている私。父が風呂の外に現れるのだ。だから窓は全開。ありがたいことに、風呂場の金網近くまで、ザクロの横の木の枝も伸びてきて、その先頭の枝の緑の葉が間もなく網戸をつつく。 植物の命を意識する。語り掛けることが多くなった。私をくるんでくれる布団や毛布にまで話しかける。おかしいと思われるだろう。無生物が無生物でなくなってきている自覚。布団類を干しながら、「ちょっと重いんだよ、お前でも! 体力がわしゃ落ちたな」と語りかける。独り言だ。我が家で一人過ごすことが常態化しているからか。庭の先の母屋に94歳になる母が一人住んでいるが、自宅一人での在宅ワークが続いているとこうなるのか。体調が今一つだからだからか。73歳に秋にはなる。まだまだ人生の現役でありたい。 我が体調とうまく付き合いながら、在宅ワークになって久しい状況下で、話し相手が電話で登場していただけるのはうれしい限りであった。 コロナはいつ収束するのか。居間のテーブルに座って、昨年6月からラストスパートをかけて、長年開発してきた「個別機能訓練に関する」夢のみずうみ村方式。書式、評価法、プログラムなど(これらをまとめて「夢のみずうみLIFE」と呼ぶ)の作成に没頭してきた。台所のテーブルが仕事場だ。ある時、列をなして蟻軍団がやってきていた。私が食いこぼした甘味によって来たのだ。「よりによって、なぜこんなところにまでくるんだおめえ達!」と叫んでいた。思わず、フマキラーを探す。俺にころさせるな!と叫びながら殺していた。それほどのすさまじく長い列であった。そこまで、気づかずに仕事していた私が悪い。 それは、2週間くらい前の出来事でったが、昨日、一匹の蟻が、仕事で使っていたパソコンの目の前をせわしく通り過ぎ甘味を探している。「おい!待てよ!」。人指し指と中指でチョキを作り、彼の進行方向を前後左右に邪魔をして、混乱させたいと、必死にテーブルをつついた。指を広げて全指で落下傘のように上から覆ってテーブルをたたいたりもした。命を奪いたくないが、ここに来てもらっては困るのだ。しつこく彼を床まで追いやった。たった一匹の蟻にそこまでするのかい藤原君と自問自答。そうだよ、おそらく奴(この蟻)は、自分の城に戻り、「おい、あの藤原の家のテーブルはもうダメ、命がやられるぞ!」の情報交換をして、蟻軍団をおびき出さないでくれ! あれだけやればこたえただろう、もう来ないだろうと自己満足、納得したという話である。 こと、こう言う具合に、無生物、植物から蟻に至るまで、最近の私は命を深く意識する心境が続いている。自身の体調の変化と連動している気がする。そうした中で、先述の友人たちの「代替わりホームページを見たよ電話」であった。 ちょっと自分の日記に書こうとした内容であったのが、いつもはディスクトップに張り付けてある日記ノートが見つからない。そうだ、あのパソコンは修理に出したのだ。もともと、代替わりのご挨拶を早くホームページ上でしなくてはと気になっていた。そこで、これを書き出したのだが、結局、日記に書くようなことを、ここに散文的に書いてしまった。でもいいや、これが、今の藤原茂だ。夢のみずうみ村を底支えするという私の実像なのだ。何も恥じず恐れず書き連ねたものだが公開しよう。ご迷惑・不愉快顧みずだ。 これをご覧いただいた各位におねがい申し上げます。新体制の夢のみずうみ村は飛躍します。そばで、次いでくれた2人の言動を垣間見るだけでも感じますし、その二人のそばで働いてくれている幹部職員たち。在宅ワークで一緒に、夢の【夢の夢のみずうみLIFE 】の開発に力を惜しみなく出してくれている防府デイサービス現場スタッフ諸君。コロナが職員みんなを強くしました。彼らが、今の私の支えであり、生きる原動力。ぜひ、変わりない応援を夢のみずうみ村によろしくお願い申し上げます。 老体ですが、朽ちるまで必死にもがき働きます。新感覚夢のみずうみ村は、静かに着実に成長過程に入っています。頼もしい新経営陣と職員諸君たちです。応援よろしくお願い申し上げます。 藤原茂拝
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