覚悟の朝 

北上は 雪。 昨夜 大槌町に児童養護施設を作ることを覚悟した。震災の沿岸部で、仮設住宅で、虐待が絶えないこと、悲劇が深く浸透していること.辛い話の数々を、「おもかげ復元師」の笹原留似子さんが語って教えてくれた。彼女の活動はNHKスペシャルで放送された。ご存知の方も多かろう。「同じNHK仲間だね」と、初対面からあっという間に息統合した。彼女のことを、どう表現したら、イメージしやすいか昨日考えた。ここに失礼を顧みず、彼女にお許しも請わず、勝手に私の一存で書き記す。
 彼女は、「ある時は、マザーテレサ、一服吸って藤純子」。
これが私の笹原留似子観。素敵な女性だ。そばにしっかりサポートしておられる菊池さんがまた素敵だ。このコンビで今、東奔西走しておられる。
 彼女と知り合ってから、私の人生は大きくUターン現象を起こし始めている。それが何の、どういうU字方向なのかは、どうも、今もってはっきりしない。私の原点、立つ位置、向うべき方向、使命、役割、まとめると存在性といったものが、今朝の北上の水道水のような冷たい水でさらさら、洗い流されているようだし、生きている意義、意味を、風が吹くたびに、木の葉一枚落ちるたびに、地下鉄の人ごみに流されている瞬間にも、自らに投げかけられ、追われ続け、問い続けられている感じだ。それから逃れようとはこれっぽちも思っていないし、むしろそうして流されることを願っている自分がそこにいる。 

 笹原さんは、震災で亡くなった方々の顔を生前のように復元し、納棺する「おくりびと」である。亡くなった方を、家族の中に、心の奥深く生かす仕事をしていると私は思う。そのことを彼女の本で知った。さらに、直接彼女に知り合うことができて、彼女の話ぶり、語り口、涙、柔らかく暖かい手で、そのことを強く感じとれた。
 何か、もっと、あなたに、できることがあるんだよ、と、彼女は伝えている。
 虐待児が児童養護施設に避難していることを知ったのは少し前のことだ。かつて20代に私自身が務めていた、東京立川市の児童養護施設「至誠学園」の総合施設長、高橋利一先生から聞いていた。昨夜いたたまれず、久しぶりに電話した。「お兄さん」。学園では児童指導員のことをお兄さんと呼んでいた。何才になっても「お兄さん」「園長先生」なのだ。私は「わしゃ兄さん」とよばれていた。
 「お兄さん、とうとう『子ども』に戻りますか」と園長の声。
 
 震災後、初めて入った石巻でショックを受け、動き始めたが立ち止まらざるを得ない事態が起きた。大槌町には2度目。東日本の震災地に最初入った時、目にした風景、ただただ怯えた自分。昨日は、怒りと淋しさ、むなしさに沈んでいた。どうして、ここまで放置されているのか。無残に「まち」が放棄されていいのか。
 大槌町の役場では、いろいろ話をしたが、要は「何をしてくれますか」と問われたのだ。やってくる多くのNPO法人。その背景を知って我々の魂と姿勢を再確認した。「住民を依存的にさせてなならない、住民の自立支援を!」という役所の姿勢に納得。夢のみずうみ村ではなく、フジワラシゲル個人がどうするか、覚悟を問われた。
 
 そういう心構えになっていた私に、笹原さんは、ゆっくりしっかり虐待児の話をした。避難先で、周囲のふとした言葉で傷ついた中学3年生の女の子の話。故郷に戻り、亡くなった両親の位牌を抱えて自殺た。、彼女の心を、誰か、ほんのわずかでいい、受け止めてあげれば、命を失わなかったと留似子さんは言った。いっぱい話してくれたが、もう一人娘を亡くしたお父さんの話。
 娘の名前を消失した自宅の跡地に、空から娘が見えるようにと、彼女の名前をモニュメントのように作っている写真を見せてもらった。そのお父さんが、娘が描いた絵、灯台を中心に、友達がいっぱい登場するの絵を死後見つけ、それをハンカチにして道の駅に置いたそうだ。娘の心をないがしろにして儲けようとはないごとぞというような揶揄する輩がツイッターで多いことを笹原さんが話してくれた。涙があふれる。「俺だって、おんなじことをする! それを書いたやつ出てこい!」
お父さんは娘さんに会いたいのだ。それだけなのだ。わからないのかよ!
 どうして人間はこうして、他人の気持ちをわかろうとしないのか。ツイッターを決して私が使いたくないのは、軽々しく文字が走るからだ。こうした深く考えない輩を社会から追放したいからだ。

 当たり前ではないか。私は子どもが自分より早く死に残された親。それも、津波というどうしようもない災害。自分だけ残されたら、このお父さんとおんなじ気持ちになって、娘(こども)に会うための衝動行為としていろんなことをするだろう。そうしないといたたまれないのだ。ほかにわが子を感じ取る手段がないのだ。モニュメントの木を一つ一つ並べながら、泣きながら、お父さんは娘と会っているのだ。素Rがわからないのか馬鹿ども!!。
 娘の鎮魂を祈ってハンカチを作ったのだ、そんなことがわからないのか。ハンカチを作って、多くの人たちの手と手に渡ってほしい。それは販売することがベストの手段だ。
 娘の存在を知らしめたい、娘を社会に存在させたいという衝動といってもいい。販売することが大切なのだ。お父さんが一人で印刷して周囲の知り合いに配るだけでは、社会的存在にならないのだ。可愛い我が娘が生きていた証をなんとか知らしめたいという素朴な思いなのだ。そうすることでわが子と一緒に語り合い、遊びたわむれ、お茶を飲む、そういう、たわいもない接触を試みたい一心なのだ。私だって同じ立場になれば、このお父さんと全く同様のことをする。
 ハンカチの彼女の絵はもっと全国、世界に流れていくといい。販売という手段をとることが、手から手へ渡っていくもっとも効果的な手段である。彼女の遺体は、彼女が大好きだった灯台のそばで見つかったのだと笹原さんが教えてくれた。

 岩手の沿岸部に児童養護施設を作る。笹原さんや、大槌、釜石の仲間と覚悟した。足元を見れば、夢のみずうみ村新樹苑を、来年7月世田谷で作る仕事もある。この4か月間近く、ややもすれば無謀ではなかろうかという声を受けながらも私の思いで企画していた事業を、2つ中止して、この世田谷の事業を実現にこぎつけた。わが社会福祉法人評議員会と理事会の仲間と、岡田、吉岡、宮本という部下に感謝したい。こうした厳しいここ4,5か月の間で問われた、法人の資産状況、経営基盤の脆弱さ、加えて、事業意欲旺盛のトップの経営姿勢。いろいろ苦しんで学習をさせていただいた。さて、私はこれからどうするべきか、どうするか。悩み、苦しみ、考えた。

 残り少なくなってきた私の人生。終わりがそろそろ見え始めてからの私の人生。子どもたちの仕事に戻ろうかと。いや、加えようかといったほうが周囲に不安を与えないだろう。そうすることにしたい。

 自らを鼓舞するために、と同時に、これから始まる支援の輪づくり、具体的には施設建設資金「1億円募金運動」を展開するために こうした思いをブログで公表することにした。自分に後戻りできなくするために、退路を断って、前進するために。
  
 「おもかげ復元師」「おもかげ復元師の絵日記」(いずれもポプラ社)を購入してお読みいただきたい。そこに、笹原留似子さんは居る。会っていただきたい。 
 実は、明後日、笹原さんが やまぐちの夢のみずうみ村にやってくる。そこで、昨日の覚悟をもっと詰めていこうと約束した。NHKに出演させていただいて得た社会的信用らしきものにすがって、コンビで社会に訴えていこう、自分たちの力で「子どものシェルター」を大槌に作ろう、必ず作ると、昨夜、雪が降り始めた北上側のふもとの料理屋の一室で、仲間6人と決めた。

 中村勘三郎さんが昨日亡くなった。私より7歳も若いのに、やりたいことが次から次にあふれてきた方だったのに。私はやりたいことをやらせていただきたい。迷惑を最小限に抑える英知を、今回の苦しい学習体験の中で獲得できた気がする。自分自身に言い聞かせながら、静かに、しかし着実に、仲間と走って行こうと思う。
 
 北上は雪。降り積もるようだ。賢治の故郷に立ち、小学校6年生のとき自らに問いかけた我が身の生きざまを、「アメニモマケズ」の感情を思い出している。
 北上駅はまだ雪である。

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命を使っている

随分と、ブログを更新していないので、具合でも悪くなったのかと6人もの人からメールや声をかけられた。ただ、忙しく走り回っていただけである。
ずっと前から忙しかった。この半年くらい前から、それに輪をかけて忙しい状況になった。いや、そういう状況を自分で勝手に作ったのだろう、とおっしゃる方は多い。そうかもしれぬし、そうでないかもしれぬが、それを分析したり、もたもたしたりする間も惜しいから、そうしないで走り続けている。目の前に出てきた事象・出来事・課題をこなすのに必死。無論、そうしようとするのは私の意思であり、拒否はできるのだろうが、そうしたくない。だからこんな始末だ。これが我が人生と、納得した走りっぷりなのだ。
先ほど機内で、ノートルダム聖心女子学園理事長、渡辺和子氏の「雑用はない」(文芸春秋10月号)を読んだ。ここ最近、沖縄、札幌、浦安、出雲、浦安、山形、浦安、山口と、1週間余の移動。搭乗機の離陸を待つ機内、電子機器を使えない時間帯での、貴重な読書時間帯で目にした文章である。
「時間の使い方はそのまま命の使い方なのですよ。この世に雑用という用はない。用を雑にしたときに雑用が生まれる…」。
どの時間も、全て私の命の使い方である。私の意思でこうして動いている「私の時間」は、すべて輝いていると思った。
 メールを書かないでいたのは、機内で読書に耽っていたからである。東野圭吾をすべて読み終えて読む物がなくなった、何か探そうと思っていた時に、「困っている人」(ポプラ社)の作者、大野更紗さんとシンポジュウムで出会った。彼女のすさまじい難病との生活。それをユーモアたっぷりに表現できる生き様に驚嘆。
読み終え、次の一冊を探しに本屋に立ち寄り、直ちに目にして買った一冊。「未完の贈り物」(著者:倉本美香、またもポプラ社)。機内でしか読書時間がない自分を悔やみながらも、機内に入れば直ちに本を広げ、涙で、何度も本を閉じ天井を仰ぎ、眼も耳もない著者の愛娘サラちゃんの写真を見て、また文章に戻る、を繰り返し、読み終えた時の自分の心の中に湧いた“静まり”。すさまじい読後感。

この、メールを書いていない期間にいろんな人との出会いがステキだった。ここで紹介しておこうと思った人。納棺師、笹原留似子さん。東日本の震災の地で出会った。彼女の著書、“おもかげ復元師の震災絵日記”〝心のおくりびと東日本大震災 復元納棺師~思い出が動き出す日~”(いずれもポプラ社)を一気に読んだ。ただただ感涙。彼女と、一緒に、被災地大槌町で仕事を創生しようと約束した。12月9日に山口に来ていただくことにした。
昨日は、山形で、旧知の友人の病床を見舞い、おそらくこれが最後と手を取り合って別れた。忘れがたい時間、忘れがたき人々が増える。そういう齢に、私自身がなったということだろう。
命の使い方としての私の時間は、私流に満足している。これでいい、このままでいい。
職員を230余名も抱える組織のトップとして、現実の諸課題に追いかけられる時間も、私の意思である。楽にしようと思えば、いくらでもきるのだろう。そうしたくないし、周囲から期待されればその事業をすべて請け負う。今、同時進行の仕事をいくつ抱えているのだろう。数えてみることも大事か?
①防府デイの増築工事、②浦安デイのプール新設工事、③夢のみずうみ村新樹苑(世田谷区)開設工事、④小規模特養:生きがい養生所防府・グループホーム夢のみずうみ村防府生活館新設工事、⑤特定施設夢のみずうみ村飯塚(福岡県)新設工事、⑥就労支援事業(イチゴ水耕栽培・長州萩大島一本釣り組合夢のみずうみの魚加工販売)、⑦夢のみずうみ村システム開発、⑧夢のみずうみ村萩デイサービスセンター開設・・・
これが、今の私の「命の使い方」である。資金繰りに奔走し、無い頭を必死に使い、寝る間を作り、仲間に支えられ押され、ほめられもせず、苦にはされながら、そうしたいから、そうする、の流れで動き回っている。その生き様の過程で、随所に感激感動感涙を頂く。だから、これでいい、このままでいきたいと思い、ただただ走り回っている。そういう昨今である。
 命を削ってはいない、命を使っている。

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ギアアップ 5速から先はあるか (君は今 どのギアで走っているかい?)

 ブログが最近更新されていないと、ご指摘を受けたので、ちょっと書いておかなくてはと思った。飛行機の移動は、昨今、また、すさまじくなったので、機内でパソコンを広げる機会は多いのだが、仕事の課題や用事を機内で済ませようとするので、ブログを書くというわけにはいかない。しかし、ブログを期待してくださる方があることが分かったので、あえて、ふと思いついたことを書きとめよう。
 私は、今、人生で最も忙しい。これほど忙しい老後(63歳から64歳になろうとする今)が待っていたとは全く予想しなかった。いや、老後というものを考えもせず、突っ走ってきただけである。いや、まだ渦中だ。周りは、定年退職して第二の人生を謳歌するものや、反対に忙しくしている仲間も多い。しかし、私の場合と少し、いや大いに違っている。私は今こそがまさに現役としてのピークにいる。いや、この先、もっともっとピークが続きそうだ。いや続いているのがはっきり見えている。人間ブルドーザーか、人間軽トラックかよくわからないが、走っている。
 人間は何段のギア付きなのだろう。標準は5速ギアの人間自動車であると考えたい。以前かあr、 「君は何段のギアではしっているのかね?」と、 しばしば、職員や教え子たちに語りかけて来た。
 私は若いころから忙しくしてきたつもりであるが、おそらく、これまでは「3速」程度で走っていたのだろうと、今ごろになって思う。当時も忙しくしていたし、もう限界と思ったことがしばしばあった。てっきり「5速」で走っていた気になっていたが、それは違う。なぜなら、以前は、今よりまだゆとり時間があったと最近実感できるからだ。自分の時間がまだたっぷりあったのだ。自分の時間とは、自分で自由にできる時間帯のことだ。忙しいとは、自分で時間を差配できず追われる「時」のことをさす。追い続けられる状態像をいうのだ。忙しい中に、かいま見るスキマ(隙間)はないだろうかと考えるが、それを考える時間すらないのを「忙しい」という。まだ私は忙しくない。ブログを書く時間があるから。
 ゆっくり思考する時間がほしい。決断するための思考をしたい。常に、即断実行を迫られる。だから失敗も反省も多い。自分で自分を忙しくしているのだとまわりは思うかもしれない。そうではない。そうではないがいうと言い訳めいてくるので黙っているが、私の人生だからこれでいいのである。
 今、私は社会が夢のみずうみ村を求めていると感じている。何を夢のみずうみ村は社会に提示し、提供し、役立てるのか。それを絶えず問われており、それを情報公開したり、実践したり、指導支援したり、自ら始めたり、動いたり、仲間と連動したり、協同したり、していかねばならない。だから駆けずり回る。
 私の実施は、5速ギアのうち、4速で走って少しゆとりを周囲に見せようとしながら、みんなが見ていないところで5速で走って、つじつまを合わせている(そう思っているのは自分だけかもしれない)。エンジンをロウギアにして スローでゆったりしたり、エンジンを切ってちょっと息抜きしたいとは思わない。いや思えない、いや、そんなんことを考えことすらしない。したくない。走り続けたい。もっともっと速く走りたい。人間という車は、5速から先、6段ギア、12段ギア、いやいや100段ギアはないのだろうか。ふとそう思った今日。初めて、浦安のデスクでこれを書いた。まだまだゆとりがあるのか、疲れているのか。ただ走り切りたい、走りたいから走る。
 明日は広島。さらに山口、沖縄、神戸、赤穂、名古屋、高浜、山口、浦安、札幌、東京と、この2週間で巡る。6段ギアがほしいと思わない。まだ私は5速の現役としてのゆとりがあるのだろうか。

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障がいを背負った猫たちが棲むデイサービス

クロは猫である。夢のみずうみ村の住人だ。夢のみずうみ村山口デイの村役場(事務所)の専用椅子(それは相談員や施設長と同様の椅子)を一つ占拠して、パソコンのそばに、多くの時間鎮座し眠っている。いや、職員から優しく体や頭な喉を、なでなでしてもらうために寝たふりをしているのではなかろうか。
 クロは、生後間もない頃、デイの玄関そばを歩いていた。いや、跳ねていた。左足前脚は親指を除いて他の4指がない。4本脚を均等に地面につけることができずに、ひょこひょこ歩きしかできない子猫であった。最初に出会ったとき驚いた。かわいそうに思った。まず小さかったし、痩せていたし、毛並みも荒れていて、野良猫の子として生まれ、なぜ指が切断してしまい、こうした歩き方になっているのか。それでも何かを食べてここまで生きているのだ。どうやって餌にありついていたのだろう、いやありつくのだろう。親の気配が全くない。まだ親離れできない子猫だと思うが、親が周辺にいない。野良猫の親にとっては足手まといになる子猫だったのか。親に捨てられた子猫だと思った。
手を差し出すと逃げた。しかし、餌がほしかったのだろう、餌をさし出すと寄ってきて恐る恐る食べた。手に載せたエサは食べないが手のそばのエサは寄ってきて食べた。それが、クロとの出会いであった。どうして指がないかは全く今もってわからない。
 夢のみずうみ村では、以前、猫を飼っていた。村は捨て猫エリアのごとく子猫が大勢集まっていた。利用者さんが餌をやりだして、いつの間にか猫が増えてしまった時期があった。ある利用者さんは猫嫌い。当然であるが、猫好きと猫嫌いが、共に通いあう施設である。不健康であるという指摘もあった。だから、衛生面では施設長の吉村が常に気を配った。しかし、あまりに多くの猫で、きっかけはもう忘れたが、猫を施設で飼うことをやめようということを私が英断して、協力して、みんなで餌をやらなくなったら、相当の期間を経て、猫は全く来なくなった。周囲から猫の影が消えた。それから、随分日数がたち、猫は、我が夢のみずうみ村山口デイサービス近辺にはいなくなっていた。
 ところがクロが目の前に来た。この障がいを負った子猫を見捨てると、福祉はできないと思ってしまった。そういう思いにさせるほどクロは訴えていた。命あるもの、やせ細って、きたなく、みすぼらしい子猫。助けを求めている。どうしても追い払うことができなかった。正常な発達をしている子猫であったら、鬼になって、追い払ったかもしれない。管理者として、衛生面に気を配らなくてはならない立場だからだ。しかし、捨てることができなかった。一緒にクロがエサを食べるのをじっと見ていた吉村施設長も、「猫を施設に寄せ付けるな」という方針(私自身が決めた)や歴史を百も承知だ。彼女の口から、「この猫飼いましょうか」とは言い出しにくかったようだが、「捨てましょう」とも言わず、黙って水を与えていた。状況は、「さあ、おなか一杯になったろうから よそへお行き」とは、絶対に言える雰囲気ではないし、一切、そういう気持ちは私に沸いてこなかった。
そのうち、なんとなく、いや、確か、吉村施設長が「村では、猫は飼えませんよねえ」といった気がする。それは、こびるでもなく、規則だからだめですよねえ、でもなく、飼いたいですねでもない。おそらく、どうにかなりませんかねえ、どうにかしてやりたい、というようなニュアンスが含まれていたような気がするが、今となってはどうでもいい。
「飼おう」と私が宣言した。ここで、この足の悪い子猫のクロを見捨てていたら、施設の介護理念が歪むとさえ感じさせる大英断であった。それは今でも痛感する。この英断は大正解であったと思う。ネコであっても、人間と変わらぬ、障がい像を見せつけ、厳しさを漂わせていたクロであった。「よかったねえ、理事長が飼ってもええってよ」と吉村施設長は何度も連呼していた。「そうだそれでいいのだ、よかった、よかった」と、自分自身も吉村施設長の声に納得して喜びを味わった気がする。
結局、施設長の自宅に何日間か連れ帰った。かって、何匹もそうであったように、やや大きくなるまで吉村家の住人になっていた気がする。ちなみに、吉村施設長のご主人は理学療法士で、山口コ・メディカル学院を一緒に立ち上げた友人である。夫婦そろっての猫好きなのだろうか。旦那の趣向は詳しくは確かめないまま、いつも吉村家に夢のみずうみ村の猫たちは世話になってきた。この場を借りて感謝申し上げたい。
 暗黙のうちだったと思うが、私も施設長も、管理者2名が、規則らしき了解事項を無視して、勝手にクロを施設で飼い始めたわけである。もちろん、病院に連れて行って、予防注射や、飼育箱、餌を買ってきた。施設内は専用の飼育箱、それに、首輪をつけ、長い紐をつけて飼っていた。
 そのクロが今は我が事務所の主だ。
 そこまでは、まあ許される話とさせていただこう。歩行不自由のクロはもちろん成長し、飼育箱から外を散歩するのであるが遠方には無論行けない、行かない。事務所前の車の下、アスファルトが常連の寝場所だ。
 ところがである。クロに彼氏ができたのだ。彼氏は白ブチ猫だから「シロ」。おんなじような年恰好だ。無論野良だ。えさは、ちゃっかり拝借方式で、野良の習性ばっちり。しかし、おかしなものでどんどん施設になついてきた。クロはいいけどシロは飼ってはいけないはずなのに飼い猫になってしまった。オスとメス。冬場、外は雪が積もる寒さだ。施設内の籠の中に2匹を入れた。職員皆でカンパしてクロの避妊手術をさせてもらった。それが、シロも飼うことにした我々の覚悟であった。
 時は過ぎてついこの間のことだ。クロちゃんは毎晩、自宅の籠(施設の玄関の内側)で寝るのだが、風来坊となった浮気者のシロは餌だけ食べに戻って、夜な夜な遊び回る暮らしが当たり前となって久しい。
 そんな2週間ちょっと前。久しぶりに山口デイに私が戻ってきた翌日、事件は起こった、
 「シロがワナにかかった」と吉村施設長から内線電話。事務所に行くと、シロの右足に鉄製のワナが食いついて痛々しい。あのじっとしていないシロが、身動きしないでそこにいる。 「イノシシか野兎のワナではないか」という話をするのだが誰もよくわからない。動物病院直行。手術覚悟。上肢をもぎ取るのではないかと、同様の被害を、自宅のネコで体験した職員がいう。そうであったら、シロもクロも障がい猫だ。病院で、右手に食い込んでいたワナを取り外し、抗生物質の注射を打っただけでシロは返されてきた。おとなしい。複雑骨折でこのまま放置するしか手はないとのこと。鳴き声がか細い。
 ところで、シロは、ワナにかかる前日まで、浮気をし、愛人を作っていた。その事実はやがて職員全員が知ることになる。シロと一緒に、時々、その愛人猫がエサをねらって、夢の村役場(事務所)近辺に近づいてきたのだ。正妻(?)のクロは、ヒステリックに不自由な足を押して、感情をあらわにして愛人猫を追い払う。思わず応援してやりたくなるほどだ。足をちぐはぐにした移動の恰好が憐れに思える。クロのすさまじい情念を見た。 
 シロはクロの動きが悪いことをいいことに、遠方まで浮気三昧をした天罰(?)でワナにかかったのではあるまいかと噂が立った。めったに、村に帰ってこなかったのに、この重傷である。おかしなもので,シロが負傷して以後、愛人は、ぴたりと来なくなった。
 しばらくシロの様子を見ようということで、かごに入れていたが、すさまじい声で一日中鳴くので、仕方なく、誰かが、かごから出してあげたらしい。シロは、愛人を追ったのか。右前脚をクロ同様、足を地面につけづらく、ひょこひょこしながら歩く。メス猫のクロとちがい、動きは少し早い気がする。さすがオスらしいと思ったが、右足に体重をかけられないはずなのに、無理して移動する。痛いのだろう、不自然な歩き方だ。このまま放置すると傷口から菌が入るし、手足も変形してしまうのではないか。いくらなんでも、獣医の言いなりに「様子を見ておきましょう」として、重症化させては元も子もない。そこで、シロを再度、籠に収監する作戦がたてられ、見事に、籠に収まった。
 結局、シロは、右手の指は残し、手のひらの筋肉と骨を取り除いた。包帯が痛々しい。手術した傷口に、口が届かないようにするため、首の周りに、プラスチックの大きな丸輪をはめて帰ってきた。村の大きなかごはシロ専用。もう一つは、夜だけクロ用。現在、事務所の近辺には、猫用の籠が2つある。
 ネコ好きのスタッフは気になるまいが、猫嫌いな職員や利用者さんは、こうした状態を苦々しく思われているかもしれない。しかし、そこは夢のみずうみ村の住民の皆さんは腹をくくっておられる気がする。障がいを背負ったクロはみんなに受け入れられているのだ。同じ障がい持ち猫になったシロの場合はどうなるだろうか。愛人を作り、たまに、食事時しか帰ってこなかったシロには愛情が湧きにくかったはずだが障がいを背負うと事態は一変するのではなかろうか。クロより大柄で、私はちょっぴり憎たらしいと思っていたシロも、障がいを背負ったら可愛くなってきたからだ。おそらく、歩き出したら、右足に体重をかけられないから以前とは様変わりした移動状態をみんなの前にさらすだろう。シロもクロも「障がい猫」。よくも、夫婦そろって同じような障害を背負ったものだ。おそらく、村のみんなは、いたわしく思い、シロに対してもクロと同様に暖かく見守ってかわいがっていただけるような気がする。甘いだろうか。
 しかし、2匹もの猫が、夫婦そろって手に障がいを背負った。移動する時は、すたこらさっさと走れない身体になった。片足に体重をかける時に、ひょこひょこ歩きをしなくてはいけない。二匹ともである。こうした猫が飼われて棲んでいるというのが夢のみずうみ村らしい。
 そうこうしていたら、クロに、貰い受けの話が飛び込んできた。日曜日に吉村施設長と交代で餌やりに出勤してくれる職員の久重君が、自宅に連れ帰りたいとのこと。今日施設長から聞いて、少しさみしい気がした。クロはもはや、事務所の住人である。それを許していいのだろうか。花嫁の父親の心境に近い? 私には娘がいない不確かだが、どうもそういう感覚ではなかろうか。淋しいのだ。しかし、彼の家に嫁ぐのならばいいか?!。
 本当にそうなら、嫁入り(?)の前に、送別会をしてやらねばなるまい。  
 2日だけ山口に戻り、今日、6月10日は京都で講演し、浦安に戻る予定。今日は日曜。山口デイサービスは朝早く、職員も誰もいない。私が村に出勤すると、シロはけたたましい声で泣く。目ヤニがいっぱいで、籠の間から指を出してとってやるが、じっと顔を向けている。調子が悪いのだろう。籠の上の段で横になりながら、足がうずくのか、かごの外に出してくれと泣くのか、金切り声になる。養生している身だから、出すわけにはいかない。クロはせがむので、事務所のドアを開け、外に出した。案の定、送迎車の下の定位置に長々と寝っころがる。シロはますます金切声。「浮気をした罰が当たったのだよ」とクロは言いたげだ。意に介さず体の毛づくろいをしている。
 クロもシロも、夢のみずうみ村の大事な住人だ。障がいを背負ったからこそ、我々のそばをじっと離れることがなく、かえって、親しく、みんなからタッチされて愛される存在でいられる人生(猫生)を送ってきた。もし、夢のみずうみ村の住人にならなかったら、施設の近隣の野山を駆け回って、野良猫人生(猫生)を送っただろう。どちらが幸せか。
 クロを見てきた我々は、前者がいいと思う。だから、シロもそのうち、あまり激しく動き回らず、事務所の椅子の上でいつも身体を丸めている番ネコになってくれるのだろうか。そうすると、椅子はもう一ついるか。いや、クロが嫁入りすると一つで済むのか。シロも一緒に異動できないのか。やきもきしながら、動静を見守っている。それだけ、気心が通い合う仲間なのだ。

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連休中の苦戦

世は連休であるが 今も そして、10日間くらい前からか、ずっとこの仕事をしている。24年度 厚生労働省 老人保健健康増進等事業のモデル事業の申請業務だ。追われっぱなしである。
朝も夜も明け方も夜中も 頭の中に文字や数字が入って浮かんでくる。、またモデル事業を藤原が始めるのかと、戦々恐々としている夢のみずうみ村職員諸君は多いだろう。なぜなら、すさまじい労力を、普段以上にこの仕事は使うからだ。 昨年も 膨大なアンケート調査 その分析 半端ではなかった。半徹夜に近い仕事を何ンンおスタッフもこなした。 モデル事業は、5年くらい、内容が変わりながら、行ってきた。やらざるを得ないという意識が自然と生まれそうしてきただけである。スタッフは一緒についてきてくれた。疲れたメンバーは翌年は代ったり休んだりしながら。
 一昨年の 宅配ビリテーションの事業推進後のスタッフの声を最近聞いた。僕にはやはり見いにくいのだろう。どうあっても走ってしまう私に声をかけにくいのだと思う。
「目的はよくわかる、社会的必要度も すべからく認識できるし、やっていて楽しい。しかし、もはや限界、次年度はもうやめてほしい」という はっきりとした声。それでも私は「やる」と決めて 職員諸君の力を借りてやって来た。
 いざとなると 夢のみずうみ村の職員は踏ん張る。頑張ろうとするし、社会的使命感に燃える。それに私が甘えているとは全然思わない。 同志だと思う。そうでなければやってこないし 離れていく それでいいといっている。
離れていったからと言って これで勤務評定しているわけでもなんでもない 同志も疲れたら休むし、考えが異なれば新たな仲間を求めるだろう。  モデル事業は簡単にはできない。 
 最近、郷土の師 吉田松陰先生の墓に 世田谷の墓 萩の墓と 両方 手を合わせに行った。1か月から2週間ぐらい前の話である。なぜ、出向こうと思ったのか、よくわからない。くたびれすぎた自分に活を入れるためであろうか。 松陰先生誕生地(萩市)には、「萩にきて ふとおもへらく いまの世を うれいてた立つ 松陰はだれ」 という
詩人 吉井勇の碑がある。 「それは俺だ」と、自宅浪人時代(19歳)私は自分で答えていたものだが、今回もそう思った。 世田谷の松陰先生の墓標には「吉田寅次郎藤原〇〇」とある。なぜ、ここに藤原が出てくるのか皆目わからないが悪い気はしない。由緒いわれをご存知の方があれば教えてほしいものだ。
 松陰先生に習いたい。そうしてこのモデル事業を必ず実行したい。
 今このブログを書いているのは気分転換のためだ。厚労省に明日7日の5時までに出すための最終案を完成させるための休憩だが、ちょっと長すぎた。資料8枚の4枚目の完成前で、頭が支離滅裂混乱。気分転換しているのだが こうして文字を書くぐらいなら、資料を作ればいいのだ。しかし、頭が動かない。コーヒーも飲みすぎ。昼飯はそうか、朝食べてからまだ食べていない。15時55分だ。食べたいとも思わない。松陰先生も何かにそんなことを書いていたことを思い出す。彼は何を食べてうまいと思ったのだろうか。宮沢賢治は ミソトとスコシノヤサイヲタベだ。
 今、取り組んでいるモデル事業案は 通所介護施設、デイサービスの根本を作り変えるような仕掛けである。単なるデイではなく住民参加型デイという、施設開放するものだ。「平成の門前まちづくり」と、以前からあっちこっちでしゃべってきたことの実践版だ。厚労省がこれに予算をつけてくれるのだろうか。いや、予算がつかなくても 世田谷区で来年度始めるデイサービスセンターではやろうとしているし 浦安では、専従スタッフ1人についてもらって始めいる。
 維新だ。夢のみずうみ村が行うモデル事業は介護保険の維新なのだ。松陰先生は、野山の獄にとらわれの身であった時に、弟子が支持を聞かないし、高杉晋作が手紙で意見したことに憤慨して「破門だ」云々と文書に書き残している。まさに、今の私がそういう心境かもしれない。ブログは怖い手段だ。こういうことを書く私と、これを読む職員、いや、職員に読んでほしいとは思わないが 読まれてもいいと思って書いている。これを見た夢のみずうみ村以外の方々がどう思われるかなどということも何も考えずこれをこうかいしようとしている。夢のみずうみ村とは、いや、藤原茂とはこういういい加減さなのだ。
 私は走りたい。ただ、立場があるから、こういう風に走るよと、このブログで大声を出す。ついてくる者しか走れない。私は走りたいから走る。ついてくるものがいようがいまいが走る。夢のみずうみ村の現場はみんな超多忙だ。現実厳しい仕事があり、24時間しか1日はなく、体は酷使できても、頭(思考)はできない。いや逆か。頭が動いても体がついていかないか。いや、どっちも限界なのか。夢のスタッフは全員が今日も走っている
 さあ、仕事再開 期限は明日17時だ 厚生労働省に 浦安からスタッフが 手持ちで出向かねば間に合わなくなった。
 何を書いているのかさえ おぼつかない。 
 高齢者ばかりが多くなっていく社会。わが夢のみずうみ村ができることは何か 何をなさなくてはいけないのか
 私は突っ走りたい 誰かがついてきてくれると信じているから 盲目的に私はただ前へ前へと走っている。みんなくたびれてるよと言っている声がしていても 私は前しか見ない でも必ず職員誰かが私を追っている 追いかけている それがすごい それが 夢のみずうみ村だ 職員の誰一人もついてこれないような異様な過酷な仕事現場になりそうかもしれない。 それでも なおも私は走っていく。 異常か正常か。夢のみずうみを救わんと立つスタッフが後を絶たない それが私の財産だ。

 

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東日本アクティヴィティーセンター構想

未曾有の大震災によって、東北の大地や海原は、未来永劫、生きている意味を人々に問いかける貴重な地域となった。日本人は、震災地東日本の風土に触れることによって「生きている意味」を学ぶことができる。生きている意味に気付き、生きていることへの感謝の念を抱くこともできる。今後、亡くなられた多数の人命を鎮魂するという営み(Activity)を通して、命あるものが「生きていること」「命あること」に気付き、感謝する風土を東日本、東北の地に創生したい。

生きている意味を見失い、苦しみ悩む人々が、この東北地方の風土に触れ、各地を歩き、様々なActivity(作業)をすることを通して、自らの命を再生させることができるのではないかと考える。震災前から、東日本は素晴らしい観光地であった。そこに、多くの人命(魂)が眠っている。東日本各地を訪ねて、自らの生きている意味を問い、各地で様々なACTIVITY(作業をする)旅を、新しい「巡礼」ととらえたい。
私たちは、この東日本の震災地の風景に触れるにつけ、「命」「生きていること」を思い偲ぶ。命ある自分、生きている自分を感謝する気持ちを味わう。東北の地は、まさにこうした生きていることを知り味わう場所である。東北地方のそこかしこを訪ねながら、生きていることを感じ感謝する営みは貴重である。四国各地をお遍路さんが巡礼するように、東北各地を巡礼し、奪われた命の鎮魂を願う作業(Activity)をすることによって自分自身の生きていくエネルギーを再生産したい。

1)サポートセンター機能
 ① 通所機能(宅配機能を明確にする)
   仮設住宅等から、日帰りで出かけてきて、施設で作業し「土産」を持ち帰る 
    a.生活の仕方を学習して持ち帰る
      更衣・入浴・排泄・食事・移動・爪切り・整容、美容
    b.家庭で使うものを作って持ち帰る
     陶芸 木工 ガラス細工 機織り 組みひも 料理 パン
    c.新しい生活技能を持ち帰る
     パソコン操作・調理方法(レシピ)・設計(CAD)操作・網づくり 
    d.家に持ち帰るサービス
      クリーニング(洗濯物を持ってきて、クリーニングして持ち帰る)
      園芸苗づくり(家に苗を持ち帰り育てる)
    e.自信を持ち帰る
      「こんなことまでできるようになった」という自分をお持ち帰り
 ② 宅配ビリテーション
    a.生活コツ者の養成
      * 健康高齢者・一般成人を、生活技能支援者として仕立てる
      * 障がい者、障がい高齢者を通所施設で生活コツ者に仕立てる
    b.生活コツ者による仮設住宅(在宅)訪問支援
     * 仮設住宅(在宅者)において、支援が必要な方の訪問支援
     * 訪問先で作って食べる支援
     * 仮設住宅での入浴困難者に対する支援
  ③ ナイトデイ機能(PM6時から夜10時まで)
    a. 作って夜食を食べる
    b. 軽く飲んで、「青春のたまり場」で歌声喫茶
    c. 一風呂浴びて休んで帰る
  ④ 就労支援事業
    a.養鶏(自然卵づくり)
    b.定置網づくり(漁業者との連携) 
  ⑤ エルダー旅籠(年老いたなと思った方の宿泊所)
    a.全国から、短期宿泊して、活動支援者を養成する人物招聘事業
    b.第1期「巡礼札所づくり」を行う人材の有料宿泊機能
    c.「つらい人・苦しい人は、泣きにおいで活動」希望者の宿泊所(1番札所) 
  ⑥ アクティビチィーセンターの運営
    巡礼札所Activity(様々なプログラムを実施。将来的には札所として独立)
    土着する鎮魂アクティヴィティーを発掘する
       (1) 短歌・俳句・川柳 
       (2) 三味線づくり
       (3) 小仏陶芸 十二支陶芸 土鈴陶芸 抹茶茶わん陶芸
       (4) こけし木工 菓子皿木工 お椀木工 お盆木工
       (5) ガラス細工 サンドブラスト細工 
       (6) 和紙ちぎり絵(風景画、我が故郷画)
       (7) 紙すき・絵手紙
       (8) 墨絵・書道・写経 
       (9) 竹炭、炭づくり 
       (10) 地蔵づくり
       (11) 札所メニュー化する「東北地方ゆかりの技能」を発掘  
   
   ⑦ ユーメ(施設間通貨)発行の検討
     a. 各、サポートセンターでサービスを受給する際にはユーメを支払うものとする
     b. ユーメの制度化の検討
  
<アクティビティ選択指針>
   好きなことをする
   子どもの頃やったことをする
   子どもの頃やってみたちと思ったけどできなかったことをする
   手づくりで、自分で使うもの、自分で飾るものを作る
   自分が作ったものをほかの人に贈るものを作る
   ものづくりをすることで自分の心を安らかにしたい
   自分の作ったものに思いを込めて、亡くなった命の鎮魂したい
   亡くなった方々の鎮魂のために、作りたい
   災害で失われた家屋の材木を活用して木工製品を作り鎮魂したい
 
 <事業計画の段階的展開>

  1.サポートセンターを仮設住宅に配備する
    その際、規模の大小にとらわれず、ユニット作業室の連合体
  2.アンテナショップ的に活動所を配置する
  3.特定市町村から、開始し配備した施設をモデル札所として、東日本に徐々に分散  
  4.広範な地域であるが、巡礼する順路を意識した配置とする
  5.最終的には、四国巡礼にちなんで「88か所」の公認札所を東日本に定着させる
  6.巡礼する方々には、震災で亡くなったり、行方不明になられた方々の鎮魂を目的とすることによって、自分自身が「生きている」ことを感謝し喜ぶ意識を啓蒙する
  7.地域住民においては、全国各地から、いずれ訪れるであろう巡礼者を、慰労する心持を抱く教育、啓蒙を行う。

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石巻に夢のみずうみ村はできないか

仙台から車で石巻に入った。テレビで見知っていたつもりだが、そんなものは吹っ飛んだ。
河川敷に緑がない。雑草も生えていない。一年もたっているのに。異様な平原。何もない。住宅がみえた。柱が残っているが、がらんどう。
海水につかっている家もある。壊れた残骸の木材等の山、つぶれた車の山並み。

高台の山に登る。かやぶきを主とした重要文化財等屋根工事一式を請け負う有限会社「熊谷産業」の社長、熊谷秋雄さんが作ったかやぶき高齢者住宅の脇から海を眺める。晴れやかなきらきら光る海だ。「向こうが、南三陸町です」と案内していただいた。
きれいなリアス式海岸にしか見えない。
「何もかも、なくなったのですよ、南三陸町」と熊谷氏。
生きている命。埋もれている命。見えなくなった命。東北の地、石巻は、私にとって、生きていく、命を考える原点になった。

家々を回っている間に時間が過ぎ、夕陽がさしてきた。実にきれいな夕日が、海の中に立っている家屋敷の屋根を照らすのだ。
なんという悲しい風景なんだろうか。涙が止まらない。きれいな夕日は、むごい風景を照らしだす。
命が眠っている、生きている。感傷的になるまい、いかん、いかん、眺めているだけではいけない。何をするのだお前、自分よ。
問いかけ続けて、廃墟の道路を歩く。車で過ぎる。

大川小学校の前に立つ。言葉がない。崩れた校舎はあっても生徒はいない、先生もいない。
全校児童108名の内74名が死亡、教職員13人の内10名が行方不明。東日本大震災で最多の犠牲者が出た学校。
建物の外枠はあるが学校がない。すぐ裏手に山があるのに、地震の時には避難所と指定されていた学校。
まさかここまでは来ないとみんなが思っていた悲劇。津波はここの先まで あっという間に来た。言葉がない。

小さな鐘があって、祭壇があり花が手向けられている。 鐘を、一緒に仙台から車で走った友人の寄田君が打った。音が響く。辛く重い音色だ。
悲しいというか悔しいというか無力、無念、…。我が子がここにいたら、私がここに勤務していたら…。私は、今ここにいただろうか。

ご父兄が毎日見えて花は絶えないようだ。「お菓子類をおかないでください」「花は持って帰って下さい」とある。
一方的な感傷や思いだけでは、かえって、被害者に迷惑をかけてしまう。私が自分の力でできることは何か。
夢のみずうみ村で職員諸君と一緒になってできることは何か。命の重み。それに耐えて生きておられる家族。
この「お菓子類をおかないでください」「花は持って帰って下さい」の小さな書き物が私を揺らす。
泣いてどうなるものでは全くないが、遠くの、溢れた北上川を見て涙。すぐ裏手の山、ここにどうして避難できなかったのだろうと涙。
まだ、見つかっていない我が子を探して父親が毎日周辺を探索しておられると聞いて涙。

どれだけ泣いても命がそこにはない。何かしたい。何ができるだろう。
夢のみずうみ村を、対岸の山の中腹に作らないかという話で石巻に来たのだった。
わたしにできることはなんだろうか。
「すまないねえ、ここに我が子の命があるのだよ」という子どもの父親の思いを共有する。

 河が地盤沈下し、従来より北上川の河川敷が1.5倍以上に大きくなっている。河が大きくなって、家屋を流し、今も流れている。
大川小学校の対岸に、2.5メートルくらいだろうか、大きな石のお地蔵さんが目に入った。そばに行く。
友人の寄田君曰く。「津波で流されなかったお地蔵さんだよ。津波の勢いで、台座の上で半回転された」という。
お地蔵さんの向いている方向が座ったままぐるりと半周したらしい。大きい石の地蔵さんだ。
津波の勢いに屈せず、流されず、ただ座っている向きを変えて前と同じ台座の上に鎮座しておられる。思わず拝んでいた。

できれば、この地に夢のみずうみ村を作りたい。お地蔵さんのそばに創りたい。小学校6年生の時、初めて知った「アメニモマケズ」の詩が出てきた。
私の宮沢賢治が出てきた。自分が福祉の道に進むきっかけの一つになったことを、ここにきて深く強く思い出す。「ヒガシニ ニシニ ミナミニ キタニ 」行くことを決めたあの小学校時代の私の宮沢賢治だ。それが全身に湧いて出てきた。この地はそういう力があるのだと実感する。ここで私は自分の原点を見つけたい。
他の人から少し離れ、住宅が流され、レンコン畑を想像させるような川べりで「アメニモマケズ」をつぶやく。涙。自分は何者ぞ。何を為すのか。

 いろいろこれまで東日本の震災に対して夢のみずうみ村はどうするかスタッフと話し合い、何もできないから募金だけはまずスタッフの総意でさせて頂いた。
厚労省からアクティビチィーセンターの相談があったから提案書を書いた。別掲、「東日本アクティビティーセンター構想」を参照頂きたい。

「さわやか財団」の呼び掛けに応じて、職員2名(宮本君、白木君)に大船渡市に出向いてもらった。
援助をするにも、事業のお手伝いをするにも、現地の方の意向が主体であって、第三者が、のこのこ出向いていっても かえって迷惑と進言されていた。
「待ってください。中を取り持ちます。どこから手を付けていったらいいか考えましょう」という話を頂き、ずっと待っていた。勝手にふるまうものでなく、現地の方々の意向が起点にならないといけない、その通りだと思っていた。しかし、もはや待てない。1年過ぎたから。

そう思っていた時に、友人の寄田君(NPO法人インフォメーションセンター)が「石巻の古民家で夢のみずうみと乗馬をやろう。ついては石巻にいこう」と誘われた。
彼からは、佐渡島の北の「粟島」での高齢者サービスについての相談ごとも持ちかけられ、3月の半ば、現地「粟島」に行った。
高速艇で吐き気を催しながら出向いた島は素敵であった。小規模多機能型介護施設ができないか、ほかにも何かできないかという相談事だ。
粟島は、高齢者が大半の、人口350人余で周囲23キロメートルの島である。素敵な島だが、高齢者の住む離島はここだけではない。
目の前に出会った人が困っておられたら、「ヒガシニ ニシニ ミナミニ キタニ 」と、ただ必死にやるしかない。後先は考えず、困っておられたらやるしかない。命は一瞬にして失われたのだから。目の前に、子どもが流されそうになったら、自分も必死に手を伸ばし助けようとしただろう。大川小学校では1人の先生が、流されながら、一人の子どもを救い二人とも助かったと、河北新聞の当時の記録に書かれていた。何が、今の私にできるのか。何からすべきなのか。
やるべきことがどうしてこれだけ目白押しなのだろうか。

石巻には緊急性を感じた。今、お地蔵さんの土地を5000坪程度買いたいと現地に申し入れている。
目の前は泥をかぶって流された土地だけで何もない。いや建物があったのだが、ないのだ。
背後の山の中腹に古民家がある。そこで「馬」を寄田君がやる。途中に、避難所であった市のスポーツ施設があり、そのすぐ下の斜面に仮設住宅が並んでいる。
そこから、山を下るとお地蔵さんが鎮座しておられる場所という地理だ。

 寄田君がこの地を去る間際に車の中で言った。
「フジワラさん。ここに夢のみずうみ村ができると 東北全体が変わるよ」
 私もそれを信じている、感じている。首都圏、山口県、沖縄県と、今いろいろ事業展開を同時多発的に展開しようとしている。
社会福祉法人の理事会では「フジワラバブルですね」と理事からいわれた。なぜ、これだけ急ぐのかという忠告であろう。
それは「心していけよ」というエールだと思いたい。そういう中に「石巻」が加わった。
神はどの仕事を優先せよとおっしゃるだろうか。

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「オーラ」は、「オイラ」でなく「ワレラ」だ

 私のブログが長いと皆が言う。それだけ、私の旅の移動時間が長いということなのである。
全て移動時間でこれを書いているからである。旅の慰め、暇つぶしなのだ。
 今日は短い。
 ある人を評して、あなたには「オーラ」があるという。「オーラ」って何だろう。私は、自分勝手な人間には「オイラ」があると呼ぶことにした。いつも、私は、とか、僕はねえ、とか、自分中心でものを言い、考える人間のことを指す。そういう人は「オイラ」が臭う。本来、「オーラ」なんてものは、ない。相手が勝手に感じる意識だから、自分には見えないし、わからないものなのだ。
 「オイラ」しか発していない自分中心の人間は、「ワレラ」を目指せと申し上げたい。自己中心的な自分を、集団の中に溶け込ませ、みんなと一緒に、知的な自分に作り上げていくことが肝心だ。そうすると、仲間のほうから自分に溶け込んで来てもらえる。「オイラ」が「ワレラ」になる瞬間だ。
「オーラ」は「オイラ」ではなく、「ワレラ」の中から生まれる。  

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第7回 夢のみずうみ楽会 (2日目)

 二日目は、初日ほどの参加者数ではないだろうと思ったら大間違い。ちぎり絵の体験をしていただくために、テーブルを25台配置していたのだが、それが足りなくなった。100名を超えた証である。急きょテーブルを持ち出すような始末。
 ちぎり絵作家、高澤裕美さんにご登壇頂いた。氏は、秋吉台で有名な山口県の秋芳町(現、美祢市)が、芸実家を招聘し、芸術活動を奨励する「まちづくり」をしようとした際に招かれたお一人であった。当地で、脳卒中を患われた。そのまま当地に残ってリハビリをされておられた延長線上で、夢のみずうみ村にお越しになった。
 ひょんなことから、高澤さんが、ご高名な芸術家であることを総務課長が知った。芸儒家百選という分厚い専門誌に、ちぎり絵作家として掲載されている氏の名前を知った。
 「夢のみずうみ村で ちぎり絵を利用者さんにご指導いただけないか」とお尋ねしたら、快くお引き受けいただいた。ただし、「片手でできますでしょうか」と尋ねられた。
 作業療法士である私の出番だ。重しを置いて和紙を切ってみた。うまくいかない。わしは案外と固い。水彩画の筆で水をつけて目指す形よりやや大きめに塗り付け、その後であれば、たやすく和紙がちぎれた。高澤さんは、この方法で、片麻痺になられた以後、それまでよりも多くの時間をかけてではあるが作品を発表された。その作品は、国連のエイズ撲滅キャンペーンで賞をとったり、南アフリカの文化勲章を受けたりと、専門家の間では、片麻痺になられてから、さらなる評価を受けられたようなことだと批評文を拝見した。
 今回は、「片麻痺でもできます ちぎり絵の世界」として、片麻痺の方はもとより、参会者は非利き手で、和紙に挑戦していただくことにした。白紙のはがきに、用意した和紙で花を描いていただくものである。花は、皆さんがわかりやすいのでチューリップを高澤さんは提案された。
 ちぎり絵は、はり絵、塗り絵のように、あらかじめ輪郭が描いてあるものではない。全くの白紙に絵具等で絵を描くように、和紙を張り付けるものである。貼りつけた後、串を使って、はっきり線を作り出すやり方など、いくつかのテクニックを教わった。2台のカメラを使い、3つのスクリーンで手元を大写した。
 チューリップ以外の花を作ったり、背景まで入れたりと、それぞれ見事な自作に酔っていたと感じた。
 そのあとは、「片手で料理教室」「片手でゴルフ」「陶芸:フクロウづくり」の3つのプログラムに分かれて、各自が好きなコーナーに出向いて挑戦する趣向。
 片手で料理教室は、料理教室の師範、臼田喜久枝さんに今回もご登壇頂いた。もう一方、体調を崩されていた師範代、米倉さん。この会にやって来ることを目標に、体調を回復され、見事に浦安に来られ指導していただいた。臼田師範は、この日のために、そば寿司とお稲荷さんづくりを用意。いつもの、3本釘を打ちつけたまな板を使って、そば寿司を片手で巻く。洗剤のキャップにすし飯を押し込み、握り状にして、それをアブラゲに包んでイナリ寿司の完成。
 片手で自分が作れる驚き、それを自分で食べておいしい感動。にぎわった。
 片手でゴルフは、隅谷さんのご指導。彼は、第3回の演者として、楽会に登場して、片麻痺ゴルフを紹介していただいた。その後、沖縄、久志岳カントリークラブ(沖縄)で開催した「夢のみずうみ杯片麻痺ゴルフコンペ」を運営していただき、そのまま、浦安デイサービスセンターが開設すると同時に職員になっていただいた経歴を持つ。
室内で打っても大丈夫なマジック付ゴルフで、通常のクラブを振りまわす方法で体験できる。彼が、今回も、実演しながら、参会者の多くに指導した。
後日談であるが、「来年の第3回片麻痺ゴルフ大会(沖縄、久志岳カントリークラブで予定)は、参会者が増える実感がしました」とのこと。

このブログをお読みいただいている方で、周りに片麻痺の方々がいらっしゃったら、経験者はもとより、未経験者でも興味をお持ちの方にぜひご紹介を頂きたい。

フクロウは幸運をもたらすのだという。防府デイ、山口デイ、いずれにおいてもよく作られている作品である。 講師の藤井美智子さんに、急きょ依頼したら、快くお引き受けいただいて実施したメニューである。萩焼の粘土で、作品は各自、心を込めてお作りになった。焼く時はどうするかということになった。急きょ、私が、野焼きの方法を紙にマジックで書きつけた。
業務用トマト缶(何でもいいが大きめの缶)の蓋を切り取り、落し蓋みたいに周りを狭める。缶の底に石ころを数個置き、落し蓋をおく。缶に風口を開ける。窯の用意はそれだけ。缶の中にフクロウを入れ、葉っぱ、細木、少し硬めの木を適当に加えながら、火で丸焼きにするわけである。注意すべきは、燃えるものを缶に入れる時に、作品に触れないことだ。どれだけの人が、素焼きのフクロウを完成させ満足されるか。私のにわか野焼きメモをコピーしてお持ち帰りになった。

最後に、全員が一堂に会した。今回の楽会。初日の舩後さんの話をまた私はした。
「生きていることがすばらしい」ということを再確認した体験を参会者全員ができたからだ。運営した職員一同、一人ひとりが同じく感動したことも後日談で聞いた。
素敵な第7回の楽会である。第8回は鹿児島で行うことを決めた。
舩後さんも、来年、鹿児島でハッピーミーティングをしていただくことを約束した。

 購読をお勧めします あなたの生き方が変わります。 インターネットで 「しあわせの王様」でアクセスしましょう。ご購入いただけます。

舩後さんの著作「しあわせの王様」の本(小学館)税込 1575円
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舩後康彦さんのエッセイ

衝撃的な題名ですが 最後までお読みくださいませ 作者の深い心がわかります

エッセイ   『悔いなく死にたい貴方へ』
“自身への問い掛けをなさいませんか?”
    舩後靖彦

一章.かつて私も

 今、衝動的に死にたいと思っている貴方!
死にたいのに、どうしようかと迷っている貴方! 
そして、悔いなく死にたいと思っている貴方!
これを読んでから、あらためて行くべき道を選んで下さい。
ほんの、数分で読み終えます。
そして気が向いたら、後で申し上げる私の誘いと願いを、お聞き入れ下さい。

 かつて私も、「死にたい 死にたい」と、2年に渡り願っていました。それは2000年5月、ここ2年で全身麻痺になるうえ呼吸不全を起こし、人工呼吸器で延命しなければ死亡する難病ALSに冒されていると、ある大学病院で言われてからの2年間です。「死にたい」
との願いは、最初の内はにわか雨のように気紛れなものでしたが、いよいよの頃には、つ
まり呼吸があと数ヶ月で停止する頃には、その願いが竜巻の如く頭の中を逆巻いていまし
た。それは、ALSとの告知を受けてからの2年で、麻痺により身体が急速に動かなくな
ったり、口から物を食べられなくなったり、息を吸っても酸素が足らず目の前が薄暗くな
ったり、同様酸素不足から来る、止まぬ頭痛に苦しめられたりで、体、ひいては人生その
ものに絶望し、先に光りを見いだせなくなっていたからです。ましてALSと告知を受け
る直前の頃の私は、宣伝マンに加え社長のアシスタントとして毎日のように海外とやり取
りをしたり、スイス・イタリア・香港などに二カ月ないし三ヶ月に一度は行くと言う、言
わば仕事人としての油がのり切っていた頃だったのです。それだけに、その絶望感と消失
感は己(おのれ)でも計り知れないほどのものがありました。ゆえ、先に光りなど、とても
見いだせなかったのです。

二章.自身に問う

 ところが、「あと何週間くらいの命かな?」と、月明りのようにぼんやりと考え出した頃
のある日、主治医の指導でピアサポートと言う所謂“人に尽くす活動”をしていたからか、 大袈裟な言いようですが、朝日に照らされた大地の如くクッキリとそしてハッキリと、
「自分自身が延命して、人に尽くすと言う生きがいの元、幸せにならなければ、俺がして
いるピアサポートなど単なる患者による、ALSになってからの苦労話に過ぎず、無意味
だ!」と思いました。ピアサポートのことでさえこれです。もうとても、自分が心底「死
にたい」と願っているなどと言うことを、信じられる筈もありません。そこで、あらため
て、次のようなことを自分自身に問い掛けてみました。
「俺は家族をこの人生のなかで愛し切って来れただろうか? 人や草花は? 自分自身は? そして、それらを愛することによって得られる喜びや楽しさがもたらす満足感は、この人生で得られたのだろうか?いや、得られたのなら、“こんな病気にならなかったら娘の結婚式に出て、妻とその喜びをわかちあえたのに”などと思い患って、真夜中に口惜し泣などする筈はない。俺はやはり、これまでの人生で得られる筈のものを得られておらず、それを、いやそれらを得られるまで“本当は、このまま病気ごときでおめおめ死にたくなどないんだ”と、思ってやしないだろうか?」
 と、 “自身への問い掛け”をした結果、
「本当は、死にたくなどないんだ」と言うことを、あらためて、本当にあらためて確信するまでに至りました。
「死にたい 死にたい」と、2年に渡り願っていた私でさえこの変わりようです。
今、死にたいと衝動的に思っている貴方がもし、私のように“自身への問い掛け”をしたなら、「本当は、死にたくなどない」と思うかもしれません。一度、“自身への問い掛け”をしてみたらどうでしょうか?

三章,諦めずに

ところで、元来私と言う人間は諦めが悪く、小学校6年からの17年間、長いブランクは
ありましたが、ふられても、ふられても妻に付きまとったすえ、結婚と言う喜びを手に入れたり、去り行く髪にどうしても別れを告げられず、35年に渡り頭皮に育毛剤を摩り込んだりする、とにかく周りから嘲笑されてもしつこくやるような、先にも述べましたように諦めが悪い奴なのです。そんな私なのに、前述のような“自身への問い掛け”をするまで
は、自分でも不思議な位、“生きてゆく”ことを諦めていました。
私は思います。“自身への問い掛け”ほど、己の考え方を変えるものはないと。そんな私の心の変化をお伝えしたく、“自身への問い掛け”から到った想いを、ここでは判り易くする狙いから、前述しました問い掛けと対比した形で記しますので、お読み下さい。

「俺は家族を、これから先の人生のなかで今まで以上に愛し、人や草花を愛し、自分自身
をゆき過ぎることなく愛してゆこう。そして、これからの人生で、愛することによって得
られる喜びや楽しさから来る満足感を、少しでも感じられるように生きよう。加えて、死
んでしまったら出られない娘の結婚式に出て、妻とその喜びをわかちあい、これまでの人
生を、そしてこれからの人生をも悔いなきものとしよう。それから死んでも遅そくなど無
い。そのためにはまず、人工呼吸器で延命することを、主治医と妻に話そう」。

対比のアレンジをしますと、このように短くなってしまいます。ですが、この思いに到る
までを、もし細かく述べるとなると、私の半生とALSになってからの苦悶と心の変遷を記し出版した、『しあわせの王様』と言う本に加えて、公には未発表の『迷い』なる講演用
の文章を、計算してみますと、だいたい6時間ぐらいは意思伝達装置で、読み上げ続けね
ばならないことになってしまいます。このエッセイを書いている私が、驚いています。

四章.悔いなく死ぬには
  その1,エクスキューズ

ここでの話は本筋からそれ、タイトルのことになりますことをお許し下さい。さて、批判への不安を隠さず申し上げますが、この四章のタイトル「悔いなく死ぬには」をご覧になられ、恐らく多くのかたが「何でこんな、死ぬことを勧めるようなタイトルをつけるのだ」と、怒りにも似たショックを覚えられたことと思います。そんな、ショックを覚えられたかたがた、本当に申し訳ありません。実は、この四章のタイトル「悔いなく死ぬには」、
「前向きに生き人生を満足のゆくものとする」と言う、私の願いを込めた、表には出さな
い続きがあるのです。しかしながら、もし私の願いを込めた続きを表に出し、「悔いなく
死ぬには、前向きに生き人生を満足のゆくものとする」としますと、タイトルとしては長
くなり過ぎてしまいますし、どなたにも憶えて頂けません。ゆえ、タイトルとして相応し
い長さにするために、その前半部分のみを抜き出し、この四章のタイトルとしました。そ
う言えば、このエッセイ自体のタイトル『悔いなく死にたい貴方へ』も、ショッキングな
ものでしたね。どうか、お許し下さい。でも、そのタイトル『悔いなく死にたい貴方へ』
にも、「悔いなく死ぬには」と同じ、表には出さない願いを込めた続きがあるものとして
書きました。つまり、「前向きに生き人生を満足のゆくものとして下さい」と言う、私の
願いを込めた続きがあるものとして。

その2,ペイシェンツ

話を本筋に戻します。さて、どなたでもご存知のことですが、世の中には癌・脳疾患など
多種多様な病気或いは事故・天災・戦争などで、“生きたいと願いながらも、死なざるを
得ない”かたが沢山おられます。また、危篤状態と言うギリギリのところにありながらも
生き続け、人生を満足のゆくものにせんと頑張っているかたもおられます。そんな前者の
、例えば病気のかたの「もっともっと生きたいのに何で死ななくてはならないのだ?」と
言う、答が“病気”と実は“そのかた”も判っているだけに、医師にも誰にもぶつけられない疑問と、行き場の無い悔しさを考えますと私は、何もして差し上げられないもどかしさが胃の腑を熱くすると同時に、“そのかた”の死にゆく悲しさがのりうつったかのような涙を流します。また、後者のかたには影ながら、その人生を満足のゆくものにせんとする頑張りに、声援を雲に託して捧げます。悲しいかなそれをすることだけが、今の私に出来ることの全てなのです。

その3,アフター ザ リーディング

かつて、ある世界的にその名が知られている、精神科医でもあり、終末期医療並びにサナ
トロジー、所謂、死の科学のパイオニア的存在であるかたが、ご自分の死を悟られた時に
、死にゆく人だからこそ書ける本を著わしました。実は、その冒頭には、

「「一生」とよばれるこの時間のあいだには、学ぶべきさまざまなレッスンがある。とり
わけ死に直面した人たちとともにいるとき、そのことを痛感する。死に行く人々は人生の
終わりに多くを学ぶが、ほとんどの場合、学んだ教訓を生かすための時間が残されていな
い。1995年にアリゾナの砂漠に移住した私は、ある年の母の日に脳卒中で倒れ、麻痺
状態に陥った。それから数年間は、死の戸口に立たされたままだった。すぐにも死がやっ
てくるだろうと、幾度となく覚悟した。そして幾度となく、それが訪れてこないことに失
望した。準備はできていたからである。でも、死ななかった。なぜなら、私にはまだ学ぶ
べきレッスンが、最後のレッスンがあったからだった。そのレッスンの数々は人間の生に
関する究極の真実であり、命そのものの秘密である。私はもう一冊、本を書きたいと思う
ようになった。今度は「死とその過程」についてではなく、「生とその過程」、つまり人
生と生き方についての本を。(後略)」

と言う、2004年残念ながら故人になられた、“そのかた”のメッセージが書かれていまし
た。2006年に始めてそれを読んだ時私は、「死がせまりつつあるのに、人生と生き方につ
いて考えるとは凄い!」とだけ思いました。それから3年後の今、叔父二人や友人の15
歳だった難病の娘、そして多くの同胞(はらから)の死と言う悲しみを経て読み直してみま
すと、その冒頭のメッセージが持っている真のメッセージが判ったような気がしました。
勿論私は霊能力者でも陰陽と書く陰陽(おんみょう)士、或いは密教僧でもありませんので
、加持祈祷をして、黄泉(よみ)つまりあちらの世界に旅立たれた“そのかた”に何かを尋
ねたりするなどと言う、ミラクルなことは出来ません。したがいまして、本当に真のメッ
セージがあるかは、悔しいかな わかりません。しかしながら、読者が読後、その人なりの感想を持つことは自然なことです。ゆえに、この場合冒頭のメッセージのみとはなりますが、私なりの感想として、“判ったような気がした真のメッセージ”をご紹介します。
それは、「人は、病気・天災・事故・戦争などにより、死なざるを得ない時にあっても、残されし時、すなわち残された人生を満足のゆくものにせんとする努力をせねばならない。さすれば、きっと“悔いなく死ねる”ことであろう。」

具体的には、「その2,ペイシェンツ」で申し上げた、“生きたいと願いながらも、死な
ざるを得ない”前者のかたのような状態に置かれても、同じく「その2」で申し上げた後
者のかたのように、ギリギリのところにありながらも生き続け、人生を満足のゆくものに
するために頑張って欲しいと言うことです。これを、さらに今は死ぬような状態に置かれ
ていないかたのために申し上げますと、

「いつ果てるか判らない人生を悔いなきものにするためには、今を精一杯そして思い切り
前向きに生きなければならない。」

と、なります。

その4,ツゥ トゥモロウ

さて、このエッセイ『悔いなく死にたい貴方へ』の一章、二章、三章で私が述べ来た自分史を、一口で語れるようにまとめてみますと、

「私舩後は2年もの間、延命拒否を続けたがために、棺に片足を入れてしまった。だが、
死期が迫って来た頃のある日、俺は本当に死にたいのかと“自身への問い掛け”をした。
その結果、人生も新たに、「生きてゆく!」ことにした。」。

とまるで、連続ドラマの“前回までの荒筋”のようなまとめになってしまいましたが、お
おまかには、このような経緯で今に至っています。そんな私がここ“その4”で、一つ目
に今、衝動的に死にたいと思っている貴方と死にたいのに、どうしようかと迷っている貴
方に申し上げたいことは、「私と共に明日へと向い歩んでみませんか?」と言う、お願い
とも言えるお誘いです。そして二つ目は、やや長くなりますが、「人はいつか必ず死ぬの
に、私は本当に今死にたいのかと、“自身への問い掛け”をしてみて下さい。きっと、心
の貴方が「生きる」と言う筈です。それが聞こえたら、貴方のダイヤのように貴重な人生
を、悔いなきものにするために今日をそして明日からを、精一杯そして思い切り生きて下
さい。」と言うお願いです。ところで、お願いをお聞き入れ下さいます貴方に私から、こ
れから向う今日そして明日にお役に立つと、私が信じるショートエッセイをプレゼントし
ます。
このエッセイは、5年前に書いたものですが、その思いは今も変わりません。お読
み下さい。

ショートエッセイ/『生きてゆく』

『生きてゆく』とは、“挑戦者”として『人生ゲーム』を楽しむ事。

人生とは『永遠の眠り』につくまでは、ゲームの繰り返しです。これを私は、『人生ゲー
ム』と呼んでいます。これに、常に勝ち続ける事はあり得ません。でも、負けたからと
いって、そこでグズグズしていると、瞬く間に歳を重ねてしまいます。それは実に寂しい
事です。つまり、人生『死』んだも同じです。だから私は、良い事すなわち“勝ち”も、
悪い事すなわち“負け”も同じに味わい、楽しめればと思っています。良い事は素直に喜
び、悪い事でも次に期待する。と言う具合に、例え負けてもその場に立ち止まる事無く、
次は勝つぞと前に進むのです。人生の終りがいつなのかは、誰にもわかりません。が、立
ち止まれば終り、繰り返しますがすなわち『死』と同じです。『永遠の眠り』につくまで
は “挑戦者”として、『人生ゲーム』を続けて行きます。そこには、『死』の付け入る
隙、つまり『死』を恐れる暇などはありません。『生きてゆく』とは、そういう事だと私
は思います。[2004年夏に記す]。

その5,ラストメッセージ

今、衝動的に死にたいと思っている貴方!死にたいのに、どうしようかと迷っている貴方
!最後にもう一度お願いします。「人はいつか必ず死ぬのに、私は本当に今死にたいのか
」と、“自身への問い掛け”をしてみて下さい。きっと、心の貴方が「生きる」と言う筈
です。それが聞こえたら、貴方のダイヤのように貴重な人生を、悔いなきものにするため
に今日をそして明日からを、精一杯そして思い切り生きて下さい。では。

                  ALS患者 舩後靖彦 (ふなごやすひこ)

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