第2回 片麻痺ゴルフ夢のみずうみ杯in沖縄 

「片麻痺になられても、これまでやっていたゴルフができますよ、さあ滅入ってないで、ご一緒にやりましょう」という意図で、軽々しく開始した今大会。今年も昨年同様雨模様の沖縄、久志岳カントリークラブで24名がプレイ。「晴れ男」藤原の面目躍如たるところで、昨年同様、かろうじて雨を逃れて大会を開催できた。参加者のうち、障がいを持たれた方の参加が昨年より少なかったので、正直なところ、私はこの大会を開催する意味を見失っていた。障がい者ゴルフがそれなりに普及している様子であり、様々な障害をお持ちの方が、ゴルフを日常的に親しんでおられる現状を知った。わざわざ、夢のみずうみ村でこうした大会を開く必要はないではないか。前夜祭でお会いした「ジャパン・ハンディキャップゴルフ協会」理事の駒井清さんの一言で私は迷いから覚めた。彼は工事現場9階から1階に落ちて、命は取り留め、右下肢大腿切断にもかかわらずゴルフの名人である。彼の一言が私を変えることになる。

「世界には様々の障がい者ゴルフ大会がある。徐々に疾患別に大会が開かれる傾向になっているような気がする。しかし、『片麻痺』と冠がつくものはどこにもない。やめる必要は全くない。いや、もっと積極的に、『片麻痺ゴルフ』を拡げていこう」という話だ。昨年、片麻痺ゴルフを社会運動として全国に広げるきっかけにしようと、声を高らかに語り、大会を終えたのに、今年は、その広がりを作ることが結果としてできなかった。だから、落ち込んでいたのに、この、駒井さんの一言に元気づけられた。「たとえ、参加者一人になっても、この大会はやろう。そのための資金作りは必死に考えよう」。そう決意を新たにした。

 片麻痺の方でなくても、我が夢のみずうみ村ゴルフコンペは誰が参加してもいいのだ。脊髄小脳変性症のKさん。最近、転倒されて、それまでかろうじて歩行器で移動しておられたのに、それができなくなったので、楽しみにしていたこの大会を欠場されるとおっしゃったのである。「何があっても、お連れいたします」、そう申し上げたら、感動して参加を決意していただいた。我々の方が嬉しかった。スタッフと共に現地入りしていただき見事18ホールラウンドされた。2200歩、歩いたとのご報告を聞いた。ただただお見事というほかはない。

パーキンソン病のKさんは、普段、歩行器を押しながら移動されるのだが、カートと杖を使ってラウンド。この大会の特別ルール、ボールの落ちた地点を延長して、カートの脇から打ってよし、を適用されれば、ラウンドがもっと楽なはずなのに、そうしたくないとおっしゃる。正式ルールでいいとのこと。球が落ちた地点まで歩いて行かれて、そこでプレイされた。結果、ハーフで中断された。すさまじい歩行距離である。日頃の夢のみずうみ村での歩行距離も相当だが、ここは目に見えにくい土地の凸凹があっての距離だ。来年は、18ホールを目指しましょうと約束。

 私は、最下位だった。昨年初めてゴルフという競技を行い、ハーフでやめていた。しかし、今年は見事18ホールラウンドできた。しかし、途中、昨年同様、球がゲートボール状態、転がる専門で、空中を飛ばないのだ。他のメンバーが、カキーンと快音残してはるか向こうへ跳んでいくのに、私だけ、ちょっと前に転がり、何回も何度も、ちょこまかと打ち続けないとグリーンの上に行かないのである。いささか、飽きてきた。全く面白くない。しかし立場上そういう顔は絶対見せられない。そんな時は掛け声だけ大きくなる。それが逆にむなしさを助長させる。それでも、18ホールを完遂することが目標だったので、それなりに必死。すると、16か17ホール目あたりの、2打目あたりから、なんだか要領をつかめた感じがし始めた。球の下あたりをしっかりと叩けるようになったらしく、ボールが宙に浮き始めた。それが嬉しいのだ。しかし、どうだろう、感触を覚えた気になれたが来年まで持ち続けられるだろうか。間違いなく、いや、おそらく、来年の第3回大会まで、ゴルフには無縁で、1年後のこの大会に、今年同様参加するのだろう。クラブを持っていないので、打ちっぱなし練習場に行くこともできない。練習場ではクラブを貸してくれるのだろうか。行く時間がないこともさることながら、万が一、行ったとしても、今の状態では恥ずかしくて行けそうもない。打ったつもりでクラブを振っても空振り。せいぜい、50、60センチくらい先にコロコロとボールが転がる様を、他人には見せられない。身の程を知っている。だからこそ、この大会は貴重なのだ。ゴルフに無縁の方にも、門は広く開かれている。ハンディーとやらが72で最下位だった私。また来年も出場したいと本心から思えるようになってきた。

自己申告してそれに一番近い人が表彰されるというオネストジョーンという企画がある。58がここのゴルフ場の平均というのか。すべてパーで回るとそのスコアになるらしい。そいう設計なのだ。ちなみに私は153であった。自己申告は138だったのに散々である。

来年、私の結果を参考に、多くの方がやってこられることを願ってやまない

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現代版「山頭火」の訪ねる食べ物屋

山頭火は放浪の歌人だ。この10年間くらいの私は、まさにお金をかけて放浪する山頭火だ。飛行機、新幹線、レンタカーなどを利用し、ほぼ全国を巡った。まだ行ってなくて訪れたいと思っている場所は、下北半島、紀伊半島先端の潮岬、三宅島、礼文島、与論島ぐらいである。ずいぶん、周ったものだと、今、ANAの機内で、中部国際空港から、那覇に向かう機内の「翼の王国」を見ながら思う。気が付いたら「なじみの店」ができていた。そこに行くと必ず訪れる「食べ物屋」さんだ。いろいろあるが、とりあえず3か所を紹介したい。

白山市(石川県)に講演で出向かなくてはいけなかった。前日、小松空港から白山市に移動してホテルに泊まる主催者の誘いを断る。小松グランドホテル近くの日本料理屋「梶助」に行くからだ。北陸に出向く時は、「梶助」に行くと決めて宿をとる。そのいきさつは以前のこのブログに書いた。おそらく「梶助」に行くのは5回目ではなかろうか。

羽田発最終便で出向いたから夜10時過ぎ。目指す「梶助」の玄関に紙きれ発見。「予約客の方だけになっております」と。期待してわくわくしてやってきたのに、愕然。店をそっと覗く。全く偶然、幸運だった。若旦那、太郎さんがこっちを見ている。目が合った。私の顔を見つけて、さっと手を挙げ、おいでおいでをしてくれた。嬉しかった。入っていくと、二つある私の定席(と思っている)、カウンターの右端(もう一席はカウンターの左端)が空いていた。大将がいない。県から長年の功績で表彰されて夫婦で出かけているとのこと。一人で切り盛りしているから予約客優先、なじみと予約客OKという感じ。後からわかったのだが、息子、太郎さんが初めて、ひとりで店を切り盛りする日だった。

いつものように今日のおすすめをいただく。生の「いくら」が出た。赤く塩気があるものと思っていたが白い。昆布だしの中につけたものというが、「いくら」の真の味とはこれだと知らしめられた。海の匂いがして香ばしい。「いくら」のイメージが全く変わった。次に、3種類の蟹が小さく盛って出てきた。以前、札幌のカニ専門店で、たらふく食べ、「蟹の味」は知り尽くしたと思ったが大間違い。たらふく食べず、僅かだがしっかりとした味をじっくり味わうことを「梶助」で教えてもらった。こういう心境は、自分が老いた証拠だと実感しながら味わう。私の腹具合に応じていろいろ出る。それが快適なのだ。前々回、隣に座った客は2時間かけてここにいつもやって来ると言われるフランス料理店のコック長だった。「自分の舌を保つためにここに来ます」と言われた。料理とはそういうものであり、「梶助」はそういう「店」なのだ。今日は左カウンターに滋賀県から来たという4人ずれ。同業者のおもむき。「看護」「介護」という言葉が飛び交うからわかる。太郎さんが勧めてくれたので「天狗舞」という地酒を冷で頼む。2合瓶だそうだ。隣の方々に勧めればいいかと勝手に決めて注文。何年ぶりだろう、酒を自分で注文して飲むとは。中ジョッキ生1杯、赤ワイングラス2杯が昨今の限界である。うまかった。おちょこで5杯。お隣さんに声をかけ注ぐ。すぐに仲良くなった。そこに大将ご夫妻が帰店。一気ににぎやかになった。11か月ぶりに「梶助」に来たのだが、いつも来ているような錯覚に陥る。なぜ、ここが和むか、自分で分かっている。料理がうまいことは当然だが、大将が私の親父に似ているのだ。ここに最初に偶然舞い込んだ時から感じていた。細い目、細長い顔(大将のほうが若干肥っておられる)、よく似ている。我が親父は口数が少なかったが、酔えば饒舌だった。私が年を重ねるにつれて親父がいろんな場面で浮かんでくる。だからだろうか「梶助」にきて、大将や太郎さんと、カウンターで向かい合う。心地いいのだ。帰りにご夫妻と太郎さん3人がそろって玄関先まで見送ってくださった。今度来る時は、萩焼の皿、徳利、お猪口を自前で持ってきて「梶助」におくことになった。楽しみだ。

 

沖縄、宜野湾市に「加藤食堂」がある。小柄な若奥様ママと、坊主頭だがまろやかな顔立ちのマスターのつくるソーセージや魚・肉料理が実にうまい。一番は、今日さっき食べてきた、ホタテとねぎのキッシュ、チーズのデリス・ド・ブルゴーニュがまずお勧めだ。ピザも手づくりでうまい。客席は24、5席程度。沖縄に来たら、沖縄料理と決めていた。同じ宜野湾にある沖縄料理「あしび島」の常連だった。以前、夢のみずうみ村の利用者さんが沖縄旅行に来られた時もここを借りきった。薬膳の汁物(名前をいつも忘れている)が必ず出てきた。これぞ、沖縄という雰囲気の店で女将にはよくしていただいた。そこを振り切っての常連となるほどの「加藤食堂」。最初は、琉球リハビリテーション学院の理事長、儀間君が「家の近くにいい店がある」と連れって行ってもらったのだ。以来、ほとんど毎月訪れるようになった。夢のみずうみ村で忙しいが、琉球リハビリテーション学院長の仕事にもついているからである。2回目に伺った時、遅れてくるメンバーから携帯を受け、店までの道案内をする場面となった。「ここの店の名はね、佐藤食堂だよ」と私が口走った。目の前でコップを洗っていた(?)ママが、そばに寄ってきて、間髪をいれず、「惜しい!」と一言。びっくりした。「このママさんの感性が素敵だ!」と。それが、僕がこの店に通い続ける原因になった。おそらく、普通の感性を持った人なら、店の名前を間違えているわけだから、「佐藤ではなく加藤食堂ですよ」と教えてくれる会話になるはずだ。「加藤食堂ですよ」と、正確な名前をそっと教えるのが通常だろう。それが、このママの口からとっさに出た言葉が「惜しい!」なのだ。こうした感性は天性のものだ。意識しては絶対にできない。そういう人が私は好きだ。この「瞬間しびれた話」を、何度も何度もここに連れてくるメンバー達に話をする。その度に、小顔のママの顔がゆるむ。微笑みながら、実に忙しく店を左右に走り回る。ご主人と二人で切り盛りしながら、客は予約電話を入れないと席の確保が難しいほど盛況なのだ。こうした感性を持っている人間が身近に欲しいといつも願う。そうは簡単ではない。このエピソードを店で赤ワインを飲みながら、学院の理事や職員にいつもくどいくらい語る。そうなってほしいと願うからだ。カウンターの中で料理を作って忙しいご主人もいつもニコニコ、ママも微笑む。この間合いが実に奇妙でもあり素敵だ。国際通りの高良レコード店で、いつものラジオ沖縄の番組で使うレコードを選び、ちっかうのコーヒー店でこの一文を推稿している。今日から沖縄2泊。今夜行こうかな。

 釧路の「幣舞(ぬさまい)橋」の先、釧路川河口に「岸壁炉端」がある。4度しかそこに行っていないが、天気予報で「釧路」が画面に出でるたびに思い出す。最初に行ったときは、冬だった。岸壁に、サンマ船が横付けされ、波音できしんでいた。その脇に、周囲を厚い透明ビニールで囲んだ細長い空間。長椅子に座ると膝のあたりに網がくる高さの囲炉裏が30近くも並べられ、4人から6人くらいが1つの炉を囲む。大きな網が炉の上にかぶされており、そこに、自分の好きな海産物を買ってのせて焼く。金券を買い、北海の海産物をずらり並べた店8店舗(?)が数珠つながりに細長く並び、客は好きな店で食べたいものを買う。さんま、ホッケ、ジャガイモ、カニ、何でも焼く。一人の私は、どなたかの網のそばに座る。たくさん焼いている脇に買ってきたものをのせて焼き始める。隣に座った若い二人連れは全く無関係に喋り捲っているし、真向いのおっさんたちも、酔って大声を出しているが、何も気にならない。私が間違えて、お隣さんのジャガイモを食べてしまった。「さんま」と物々交換。酔狂だ。札幌生ビールが、冬でもうまかった。秋口と夏場にも行ったが、ここは冬に限ると思っている。夏場は、ビニールも船もなかった。するとここは今一つだ。淋しくなれないのだ。ここに一人来て、岸壁脇の、この囲炉裏そばに腰かけホロ酔う。波間に漂うネオンを見ながら、持ってきたCDを聴きながら、何も考えないで酔う。淋しい。その淋しさに酔うためにここに来るのだ。いつのころからか、私は、こういう人ごみの中に紛れ込み、一人で「淋しさに親しむ」ことが好きになった。誰かとワイワイすればいいではないかといわれるかもしれない。それは付き合いであって、私の気が休まるというのとは違う。ひねくれ者なのだ。3回目に来た時確信した。4回目は利用者さんと来た。知床・釧路・根室と巡った第8回夢のみずうみ村旅行である。利用者さんは席に座っていただき、スタッフが店を走り回りながら、魚や、貝、ビール、ジャガイモなどなどを買って網にのせまわった。片麻痺があり、車椅子も利用する我々の一行30人は、縦横無尽に動き回った。それはそれで実に快活な「岸壁炉端」だった。

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第10回夢のみずうみ村旅行

 浦安に夢のみずうみ村ができたことを記念して、今回の夢のみずうみ村利用者さんの旅行は、東京・浦安となった。3泊4日を基本に、第1回 オーストラリアを皮切りに 第2回北海道道南(札幌・小樽・富良野)、第3回 沖縄、 第4回 黒部・飛騨高山、 第5回 韓国冬のソナタを訪ねて 、第6回 湯布院(この回のみ1泊2日)、 第7回 東京神奈川 、第8回 秋田青森、 第9回 北海道道東(知床・釧路・納沙布)。そして、今回、10回目。

 前夜、浦安から山口に戻り、仕事を処理して、帰宅午前1時。朝5時起床。厳しい。送迎車を運転し、萩市内の利用者さん4名(1組はご夫婦)のご自宅にお迎え、山口宇部空港へ。すでに他の皆さんは到着。今回は全日空宇部のご配慮を頂き、乗り込みはスムース。(以前,JALを60分近く遅らせた実績を持つ)

 羽田に到着したら、ボランティア(東京福祉専門学校・帝京大学作業療法学科)の学生達が待ち受けて、バスにいっしょに乗り込む。車体に夢のみずうみ村と横書きしたマイクロバスが、職員の宮本君の運転で、あの羽田空港脇の駐車場に横付けされている。その風景を想像しましょう。山口県のあの夢のマイクロバスが羽田空港ですぞ。横付けですよ。感無量でした。

 最初は明治神宮。砂利道があること、身障者トイレがどこにあるかなど難題。先発隊として、浦安デイサービスに、山口デイから1年間出向している井上君とボランティア2名に、明治神宮に先乗りしてもらう。駐車場確保、トイレ情報収集をしてもらい難なく砂利道も走破。山口から用意していった車椅子10台、現地のボランティア11名の存在が大きい。

 NHKのスタジオパークへ。いろいろな仕掛けを、自由に見て回る。朝の連続ドラマ「カーネーション」や、大河ドラマ「お江さま」などの模様、出演者の衣装などたくさんお番組の内情がわかり楽しい。吹き替えができたり、タッチパネルを触って、クイズに答えたり、近代設備満載に驚くことしきり。しかし、場内を歩き回ってみる。実に歩くこと歩くこと。日頃の夢のみずうみ村の中での歩行訓練がどれだけ生きていたかがよく自覚できる日程でした。

 ホテルは、浅草ビューホテル。いつものように、すぐにトイレ・バスタブのチェック。片麻痺の方が、どこまで車椅子で近づけるか、浴槽をまたいで入り、浴槽内で立ち上がって出てくることが可能か。おおむね、どこのホテルであっても部屋に備え付けの椅子にバスタオルをのせれば、おおむね浴槽の縁に腰掛る場が確保でき、それで浴槽をまたいで出入りする寸法だ。ここでもなんとかなりそうだ。ホテルの部屋からの眺めが抜群だとの参加者の声。2泊しました。

 二日目は、二重橋。いちばん近い駐車場からでも200メートルくらい移動する。長い横断歩道に、一同勢揃いして、車いすを押したり、杖をついて歩いて渡ったり。二重橋前で記念撮影。垂れ幕を出して移そうとしたら、お巡りさんから注意を受け垂れ幕はしまって撮影。ほっとする。

 二重橋の移動に時間を取られたが、明治座で「大奥」の舞台を見る予定時間にぎりぎり滑り込む。利用者さんのほぼ半分ちょっとの方を席に誘導したかどうかという時間に、始まりのブザー。暗闇で一部にお方を席に誘導。最後の方が席に着く際は真っ暗闇に懐中電灯を照らして着席していただいた。芝居は、テレビで見ていた「大奥」の舞台版。NHK大河ドラマの「お江さま」でも春日局が登場するが、まさしく、そのお局様のお話。昼食は弁当を配って客席で食べる。じっと見ているわけにはいかない付添職員。芝居がどうも合わないで中途退室される方、トイレ誘導、その他エトセトラの利用者さんの要望をなんとかかなえるべく職員大奮闘。

さてさてお次は、六本木ヒルズに移動し、各自グループに分かれてお店巡りの食事。ボランティアの学生と利用者さんがそれぞれ好きなところに移動。私は、みなさんがどこで食べておららえるか巡回。ところが、集合場所にどう戻ればいいか行方不明。あわてた。集合時間になんとか失態をせず、間に合って何食わぬ顔。そこは責任者。しかし、実情は情けない限りでした。それだけ六本木ヒルズは田舎者にはでかい。(都会人にも、でかいか?)

 3日目は、お目当ての、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター見学でした。浦安のいつもの利用者さんと、山口県のデイサービスの利用者さん総勢65名ぐらいが、浦安のデイサービスセンター内をうろうろされました。ここにも、「夢のみずうみ村があるのだねえ」の声。いつも、通っておられる山口とは一瞬違って見えても、そこは夢のみずうみ村の、雰囲気、におい、プログラムが目白押しにあることに納得された模様。利用さん同志が意見交換されている場面にも遭遇しほほえましく感じました。浦安にも夢のみずうみ村を作ってよかったと実感しました。

さて、昼からはディズニーシーです。学生ボランティアさんが車椅子を押しながら、それぞれが自由に動き回りました。万が一のことががないか、私は場内を歩き回りますが、なんせ、自分がどこを動いているのかわからない。私の足も棒になるが、利用者さんたに移動の疲れがないかなと心配。すさまじい運動距離の旅行です。車いすを10台山口から持ち込みましたが、会場でも3台を追加。大勢の学生ボランティア(東京福祉専門学校中心)さんがあったので、満喫できたと思っています。明日は雨の天気予報。晴れ男を自称してきたから安心していましたが、さすがに予報は明日から2日間、雨模様。売店に、ミッキー、ミニーのポンチョが2500円で売っている。職員には、明日は、晴れるよ私が晴れ男だからと前夜のミィーティングで豪語していたが、そこは責任者。万が一を考え万全の対策をとることにした。30個も買い揃えたの店員がびっくり。

最終日。朝6時、インターネットで天気予報を見る。関東地方雨。あちこちパソコンを操作していたら、「浦安」気予報」とでてきた。地域限定の予報があることは知らなかった。開けてみた。「午前9時から12時、曇りマーク」。なんということだ。9時まで雨。12時から雨。その間曇り。万歳。晴れ男極まれりで自室で万歳をした。ディズニーランドに行く。曇りだ。少し雨っぽい時間帯もあったが、何とか最後まで持ったのだ。すごい。

ここでも、大勢の学生ボランティア(帝京大学中心)が参加していただき、勝手に個人個人が動き回ることができました。障がい者の方が優先的に入れるカードをもらっていたので、シンデレラ館に、たくさんの人が並んでいるところを、我々は優先的に中へ入ることができた。シンデレラ姫の生い立ちが紹介してあり、私も見るが、あまり感動がない。何とかスムースに会場をみなさんが流れて行くことばかりを気にする。「いい年をして、シンデレラもないもんだ」という感覚は、ディズニーランドを楽しむことができない私の性分に由来するものだと自覚。ただただ、利用者さんに旅を楽しんでいただき無事に終わればいいという思いがどうしても常に付きまとう。職業病だ。

 さて、いよいよ羽田空港に向かうが、「お台場」見物をしてからの予定であった。時間が中途半端になり、バスの運転手さん、ガイドさんに相談。「東京見物の最近の人気観光コースに羽田国際空港があります」とガイドさんから紹介あり。この日、私は、16時半過ぎ、韓国に出張する強行軍。利用者さんは16時40分発。神様は、私の無理な日程も、難なく素敵な利用者さんの観光メニューに変えてくれたと思えた。国際空港3階の店で抹茶アイスを食べながら、多くの見学者の賑わいに触れていただいた。

 国際空港前で、私はみなさんを送った。その瞬間、私の今回の利用者さんとの旅行は終了した。バスのテールランプを見送りながら、なぜか涙が出てくるのだ。今もってその意味が分からない。なぜ泣いたのだろう。さみしかったことは間違いない。自分一人が置き去りになった感がしたのと、自分は、頼まれて韓国に講演会にいくが、本末転倒ではないか。自分は、利用者さんお側に立つならば、なぜもっと密着しないのか、そんなことでは、今後の事業展開も…?!。短い時間だが、複雑な思いに駆られた。私はどうしても現場の人間であり続けたい。しかし、そうも言えない経営者の前途もある。さてさてと、思いをはせながら、韓国に向かった。

 利用者さん御一行は羽田空港へ。空港では、飛行機に乗り込む際のトラブルが予測通りあったとの報告。いまさらながら、私が、航空会社にガミガミ小言を申し上げる必要性があるなあと実感。常に、旅行社や空港各社に申し上げることは、「我々は、通常の障がい者、子どもの優先登場開始時間よりさらに10~15分程度は早めに、誘導開始させてください。さもなければ、時間がかかって、一般客にご迷惑になります。それは本意ではありませんから」という申し出る。しかし、それが却下されると、案の定、出発が遅れる。かつて、JALを1時間近く遅らせてしまった教訓からそう申し上げるのだが、航空会社の直接の窓口の方は、マニュアル通りにしか反応なさらない。今回も全く同様であったらしい。スタッフが申し出ても無理だったとのこと。

 いつもながら、思う。夢のみずうみ村の旅行は、障がい者が旅をするノウハウを、社会に知らしむる旅であると。社会を動かすために、我々は、大人数でぞろぞろ旅をしたい。他の障がい者の団体旅行がスムースに流れるとともに、旅行各社が障害の理解をより深めてもらうために旅を続けたい。

夢のみずうみ村の旅の 原則1:一番遅い人に合わせる 原則2:トイレ休憩を1時間おきにとる。

 

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63歳を過ぎる

2011年10月6日午前6時38分。羽田から沖縄行き全日空機の中。1948年10月6日、午後8時40分ごろ、私は山口県萩市に生まれた。沖縄につく時間には、ちょうど満63歳を迎える。今、私は、沖縄で琉球リハビリテーション学院長をしている。今日は、まず、ラジオ沖縄で、「ゴーインにマイウエイ」という、ラジオ番組のコメンテーターとして、2か月分の録音の仕事をする。この仕事は、すでに半年以上もやっている。1時間番組で、毎月第二日曜日の夜10時から11時という誰も放送を聞かないと思えるような時間帯に放送されているが、結構人気があるそうだ。知念常光さんというメインキャスターと一緒に二人で好き勝手を話し、6曲私の好きな音楽をかける番組である。今日も、那覇空港に着いたらタクシーでレコード店に行き、好きなレコードを買って局に持ち込むのだ。それが終わると、学校の仕事。そのあとは、沖縄で障がい者の方々が、自然卵の養鶏を中心に、農園を兼ねた就労支援事業所を作るための事業の打ち合わせで何人かと打ち合わせがある。2日間滞在して、札幌に向かう。気温はこの時期激変するだろう。着の身着のままで走っているわが身は、寒ければどこそこの巷で何かを買い込んで着込むという始末で何とか過ごす。常套手段である。今回札幌では、どうしても断れなかった講演会をこなす。終了したら、最終便で浦安に戻る。

夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターはまだ開設3か月。忙しい。朝から利用者さんの送迎か施設内掃除をし、その後、大体9時15分ころから「ほぐし」と名付けた、上田法治療(こわばりを除去する治療法)を、夕方4時前まで最大1日13名担当する。夕方も掃除(私は、大体、階段や椅子の雑巾がけをする)か送迎をやり、一区切りつくのが、午後6時過ぎ。それから、会議か打ち合わせが始まり、出前を注文し、みんなで食べるとますます夜は遅くなる。身体が疲れて、頭はさえない。考え事は明け方早起きしなければまずできない。63歳となった自分の体力、知力は、介護・リハビリの現役職員であるとともに、経営者としての手腕も問われる。職員現役続行は大変厳しい。

思い返せば、52歳の時,NPO法人を立ち上げ、53歳の時に山口デイサービスセンターを建設。57歳、防府デイサービスセンター。以後、デイサービスの利用者さんが徐々に重度化されてくることに対応して、夢ハウス仁井令、夢ハウス湯田、夢ハウス丸山と小規模多機能型居宅介護施設を立て続けに建設。その間、フランチャイズとして、富山に夢のみずうみ村アルペン、沖縄に夢のみずうみ村平安郷、鹿児島に夢のみずうみ村アルテン、福岡に夢のみずうみ村行橋を開設指導してきた。さらに、夢のみずうみ村のデイサービスに通ってこられてお元気になられ、要介護度が軽度化する方が、明日から、デイサービスに通えなくなってと困るとおっしゃり、就労支援事業所、スープ屋「夢結び」を作った。これが、この10年間の現実だ。

今、東日本大震災の仮設住宅にサポートセンターを作る事業を展開できないかと動いている。東京都区内でデイサービスを中心とした地域密着の交流センターを運営する計画案を練っている。地元の山口県で、開発事業の声がかかり、それにも手を挙げている。

いくつものプロジェクトを一気に抱え込んでいる。どうなってしまうのだろう。なるようになる。したいようにすすめる。だから、必死に走る毎日。かつて、沖縄県や、山形県さくらんぼ東根市、東京都清瀬市、品川区で提案してきた「健康リハビリ巡礼事業」を、愛知県高浜市で昨年来はじめ、今年度から本格的に具体的な展開が始まった。これは今もっとも力を注いでいる事業の一つだ。高浜の吉岡市長は、このメールを見られると、いいですか、高浜を優先してくださいと念を押されると思うが「ご心配無用。着実に動かせますから」と回答させて頂きたい。こうした同時多発的事業展開は今に始まったことではないからだ。これこそ夢のみずうみ村、いや藤原方式なのである。

「63歳、藤原君。君は、どれだけのことが、これから先できると考えているのかね」と、問われそうだ。夢のみずうみ村の幹部職員は、私に振り回されて辟易していることだと思うが、どっこい、みんなしたたかで、冷静に私についてきてくれている。

 63歳、今、何をすべきかの答えは、「手あたり次第、馬車馬のごとく走る」である。20代、児童養護施設で児童指導員として、子どもたちと、先を考えず、ただ必死に育った。あのころを意識したい。その後の作業療法士として働いた病院時代も、様々な試みをした。精神科病院では、全患者さんを、毎日800メートル先の病院前の池の浮島までの散歩プログラムを提案し、看護部門と激突しながら、患者さんに感謝された。あのパワーだ。35歳頃の話だ。山口県初めての「リハビリ」と名がついた病院を理事長の一言で立ち上げ、朝、7時過ぎから夜10時過ぎまで、開設時、最高87名の患者さんを1人で担当した時のすさまじいエネルギー。もう40歳を過ぎていたが、土日も走り回り、山口子どもクラブ、萩子どもクラブ、在宅リハビリの会、脳性まひの子どもたちのリハビリの会。様々なボランティア活動をこなした。学習障がい児親の会山口県支部や、日本ALS協会山口県支部、山口県園芸療法研究会などを組織化した。当時のパワーは今も健在だといいたいがそうはいかない体力。気持ちだけはまだまだ老いない。我が力がお役にたてればどこでも何にでも参画したいと思っている。とにかく、我が人生、走り続けなければならないと思い込んできた。まだこれからも後先考えず走り続けたい。

 今日。63歳。周囲の心配の声は耳にするが、あっちこっちに手を伸ばし、できること、やってみたいこと、できそうなこと、できそうもないこと。そうしたいから、そうする感覚で、ことに臨んでいる。63歳、本当にこれでいいのだろうか。

総勢190名余の従業員諸君を抱える経営者として、迂闊なまねはできない。経営を安定させねばならない。そこで、今年、大学浪人時代、予備校で席を並べてひたすら勉強した親友の天井正明君を経営統括室室長として迎えた。この10年、事業が確実に発展してきた。今まさに、全国展開し始めた。今後はさらに広がっていく。だから、経営を客観的に見てくれる専門家が必須である。彼は、期待通り、就任直後より銀行筋、会計管理、対外事業折衝と適格に動き回ってくれている。

 私は70歳まで生きたい。それまで、走り回って、今、頭に浮かんでいる、日本の社会に貢献できると信じる事業を手当たり次第に芽を出していきたい。おそらく、芽を出すところで私の役割は終わるだろう。それで十分だ。私は、今、夢のみずうみ村を支える人材養成に躍起になっている。片手に余る以上に若手が伸びてくれている。新しい人材で夢のみずうみ村をさらに発展させる体制を築くことが私の使命だ。これからも、荒療法を、若者に強いたい。夢のみずうみ村のためではない。日本のために、日本の社会事業を支える人材に、夢のみずうみ村から育ってほしいと願って、厳しく若手を育てることに、余る時間が生まれたら絶え間なくエネルギーを注ぎ続けたい。今、浦安では、遅くまで仕事をこなし、若者を引き連れて、食べ飲み歩き、洗脳している。

 「身体に気を付けないといけませんよ」と、会う人話す人誰もが必ずおっしゃる。無論その通りだが、身体に気を付けていては、時間が生まれない。しかし、病気になると、即、時間を奪われる。その加減をどうするか考えている間に時は過ぎる。それもできない。63歳。「ゆっくりやりたいことを展開し、できることがあればやるができなければ仕方ない」と、健康重視で細く長くやることが、結果的により多くの夢を実現できるのかもしれない。「手当たり次第、やりたいことを走り続け始めていき、できるものは残り、やはりできなかったと、そこで止まってしまう」やり方。どちらの方法を選択するか。63歳を迎える今日、今7時43分。まだ沖縄にはつかない。沖縄につく8時40分の63歳の瞬間を待つまでもなく、私は、後者を選ぶ。いや、もうすでに走りまわっている。

「体調は?」と問われるが、「いいのか悪いのかわからない」と答えることにしている。

無理をすれば当然どこかにガタがくる。私はポンコツ車である。若いころから随分あちこち修理している。しかし、私の車は5速ギアであることに50歳を過ぎたころ気付いた。忙しい忙しいと40代は走っていた気がするが、当時はまだ4速ギアで根をあげていただけだ。20代から40代も随分と忙しかった。しかし、それは3速ギア程度でアクセルを最大限踏み込み「もうだめ、忙しくてたまらない」と根をあげていたように、この歳になって思う。50歳前後で、様々な活動を、時間に追われてやっていたころでも、今から思えば、いくらでもゆとりがあった気がする。

今は5速にギアを入れ、アクセル全快だ。最近のポンコツ車の走り具合は、自分で自由に使える時間が本当に消えた状態、すなわち、5速ギアのフル稼働状態。それでも、ゆっくり走ったりすることもある。時折、アクセル全開で、息も上がっている事態を経験する。「忙しい」ということは、何をもってそう言うか、よくわからなくなってきた。ナポレオンは3時間しか寝なかったという。本当だなと昨今感じる。寝ていて思いついたのか、起きているときに考えたのか、全くはっきりしないが、アイデアが浮かび、すぐ、メモをしないと忘れてしまうこともしばしばだ。そういう暮らしが日常的になって久しい。

こういう中で、夢のみずうみ村は全国に広がっていくのだ。一人では何もできぬ。しかし、まず、一人が始めなければならぬ。

 63歳になる。これからは、毎年、誕生日に遺言を残していこう。いつ死んでもいいように。走り回るからだ。おそらく私は、走っている最中に、どこかの巷でぶっ倒れることを想定したほうがよさそうだ。無論そうなりたくない。しかし覚悟して毎日に望まないと職員諸君は夢のみずうみ村の現状、将来を案ずるだろう。そんなことがあってはならない。長嶋茂雄ではないが、「藤原茂はいなくなっても夢のみずうみ村は不滅です」と、そう宣言したい。私は必死に努力する63歳でありたい。

 8時3分。沖縄に向かって飛んでいる。まもなく、私は本当に63歳を過ぎる。

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夢のみずうみ村開村10周年・社会福祉法人設立記念式典

  夢のみずうみ村は満10歳になった。平成13年4月1日。朝日が照るが小雪が舞うという思い出深い天候の中、山口市から秋吉台に向かう途中の、街並みとの切れ目になる小高い山の中央の一本の杉の大木を私はチェーンソーで切り倒した。それが夢のみずうみ村の始まりであった。平成13年9月1日山口デイサービスセンターを開設した。以来10年間。特定非営利活動法人(NPO)で始めた施設は、平成23年8月1日、社会福祉法人になった。新しい時代の社会福祉法人の在り方が問われて久しい。今まさに改革がなされていく中でなぜ、社会福祉法人なのかと何人かの方々から質問を受けた。なぜだろう。よくわからないが、そうすることがより安定して社会貢献できそうな気がした。いやそれとも違うかな。私は、21歳になろうとするとき、社会福祉法人「至誠学舎」、児童養護施設「至誠学園」の児童指導員として大学在学中にもかかわらず住み込んだ。施設での体験を通じて、福祉を行うには、社会福祉法人にならなければできないものだと思い込んでいた。社会福祉法人になるためには私財を投げ打たねばできない、資金を蓄えないとできない、その額3億円。常にそれが頭にあった。財力は私には全くない。話にならないと半ばあきらめていた。

「夢のみずうみ村は、社会福祉法人になれる財力、運転資金が備わっています」と、県庁からの報告を事務次長の吉岡さんから受けた。「まさか?」、不思議な気持が先に立った。まだ相当の借財が残っているし、施設は銀行の担保物件にもなっているのだ。しかし、県の担当者に様々な資料を提出し吟味精査してもらっての結果である。間違いはあるまい。しかし、こうも簡単(?)にOKになるとは、意外な回答であると正直に感じていた。私の指導員時代(今より40年も前)より、社会福祉法人の設立要件が相当緩和されているのだろうか。1億円の資産でいいのだが、それがあるか? 「ある」という。どうも納得いかない。説明を受けた。うわっ! 資産ありだ! 手持ち資金5000万円以上が必要とのこと。ないぞと思っていた。通帳に、しっかり、介護保険料収入が入り、5000万以上の金額が通帳に刻印されている。それで十分という。社会福祉法人の要件は整っていたのだ。ただし条件があった。根抵当権を銀行が放棄してくれるか否か。ことは早かった。短期間の間に、事務次長は孤軍奮闘した。ずいぶんと、山口県の担当者、山口銀行と萩山口信用金庫と、時間をかけ、書類を作り加筆修正を繰り返し、いろいろ話し合い相談し、山ほどの書類を作り上げ、今日を迎えた。様々な方々に感謝したい。

さて、記念式は山口市内の会場で行われた。私は、浦安デイサービスセンターが7月1日に開設していたので、そちらで陣頭指揮を執っており、記念式典の準備一切に全く関わらなかった。ただ、仰々しい、権威的な会だけはやめてくれと、代表代理の岡田君には注文していた。利用者さん、職員、村民、協力者の方々が集って、10年間を振り返るという企画になり、意図は明確に実践された。

第一部は、利用さんであり、料理、俳句、ちぎり絵の先生として、開設当初から10年間、施設利用と指導者の役割を継続してこなされた3名の利用者さん(臼田さん・島田さん・高澤さん)の表彰を行った。開設当時は、数名の利用者さんであった。1名も利用者さんが来られない日もあった。3名の方は、徐々に増えてきた利用者さんの先生役であり、自己選択自己決定方式の展開を可能とする重要な役割を担っていただいたのである。感謝いっぱいである。一番前の席に陣取られているお三方に記念品を贈呈させていただいた。

次に、ボランティアとして長年活躍していただいた、お二人(山根さん、倍地さん)を表彰させていただいた。山根さんは、下関から早朝に自車で来られ、施設が(営繕的な部分で)一番困っていることは何か、独自に察し、炎天下であろうが、極寒の大雪であろうが、黙々と外仕事が中心での作業をされ、昼食を、利用者さんとともに召しあがり、夕方、利用者さんが帰られる4時ごろに作業を終え、シャワーを使われ、自動茶器から、ご自分でお茶を入れて飲まれ、しばし、休息されて、そっと去って行かれる。それを10年間継続された。ボランティアとは山根さんのことをさす。あり難い存在である。この日を待ってお礼を申し上げたかった。当日、レセプションを会場のホテルにご宿泊いただいた翌日。さっそく、夢のみずうみ村山口の入口の急斜面の伸びきった雑草を芝刈り機で刈っておられる山根さんに遭遇した。いつもこうだ。本来、こうした作業は職員がしなければならない。しかし、後回しにする仕事か、やらないで見過ごさざるを得ない作業をこなしていただいてきた。感謝してもしきれない。

お二人目の倍地さんは、ご自身が、障がい児と長年かかわってこられた経歴をお持ちの方である。NPO法人夢の湖舎の設立組織の一つである「ラ・ベルヴィ」(脳性まひ児を持つ親の会)の子どもたちのお世話をするボランティアとして、夢のみずうみ村とのかかわりが始まった。創生期、「ラ・ベルヴィ」のお母さん方の3人が職員となられ、2人がボランティアとして、我が子を連れて、村に出勤される、その子どもたちのお世話をしていただいた。介護保険事業に併設して、自立支援事業が始まり、特に、児童デイサービスが始まってからは、職員とともに、いや、職員以上に子どもたちを、責任を持ってご指導いただくことになっていった。職員になっていただきたいとお願いするが諸般の事情を語られ、それをやんわりと断りながら、ボランティアを続けてこられた。児童デイサービス、自立支援事業の職員はこの間交代をしていったが、全く変わらず倍地先生は子どもたちのお世話をしていただいた。職員以上に、夢の湖の子どもたちのことや、施設のことを承知されているほど大切で重要な存在になっていただき、ご心痛やご支援をいただいた。ありがたい限りである。

いよいよ、職員の永年勤続表彰を行うことになった。10年前私を含め7名の職員で夢のみずうみ村は始まった。そのうち、もともと「ラ・ベルヴィ」のメンバーであった原田さんは、同会が夢のみずうみ村から発展分離していったときに「ラ・べルヴィ」に転勤されていったが、開設時のメンバーがそのまま今日まで残っているのである。自慢したい。開設時に一緒にいた私が、他の5名の職員を表彰するのである。泣いてしまって表彰ができない様では情けない、どうしたらいいかとずいぶん案じていた。岡田代表代理が表彰状素案をメールしてきた。どうもしっくりこない。紙切れは私なら欲しくない。記念品だ。そうだ、何か記念品を探すのだ。すぐに、萩ガラスにしようと頭に浮かんだ。生活の中で使う道具を記念品にしよう。置物をもらっても僕はうれしくない。記念式典の前日、浦安から山口に戻り、萩ガラス工房に出向く。同じものが2つとない創作ガラス。萩市の日本海べりの火山「笠山」の岩石を使った独特のガラス細工品である。社長の藤田浩太郎さんは私が会長を務める「いい萩をつくろう会」の仲間であった。5人の職員の顔を一人ひとり思い浮かべ、ガラスと漆の合作カップ、コーヒーカップ、花瓶、ジョッキ、色違いグラスを求めた。翌日、5人の職員に手渡すとき、僕は声がつまり、言葉にならないと思った。前日常宿であるホテル喜良久の部屋に、神と筆を買い込んで、一言を、一人一人に書き始めた。何度も何度も書き換え言葉を選んだ。

まず、吉村恵子さん。施設長として、ずいぶんと私は彼女を困らせた。言いたい放題、頼みたい放題。難題を持ちかけ、それをこなしてほしいとずいぶんと走っていただいた10年だった。「型の崩れない豆腐」。彼女につけた私からの称号である。どんなことも、どんな職員の悩みも彼女は吸収する。聴いてくれるのだ。利用者さんが困ってしまうようなことが予測されたら、休暇であろうが日曜日であろうが昼夜を問わず施設に出入りして、対策を黙々ととる。事務所に腰を掛けている姿を見るのは、夕刻の仕事が一通り終わった後か、緊急に会計処理ないしは事務処理をしなくてはならないちょっとした時間以外にはない。常にじっとしていない。広い施設の隅々を、ちょこまかちょこまか、左右に眼をこなしながら歩き回り、掃除し、ごみを拾い、ものをセットしたり移動したり、何かと仕事を見つけては動いている。じっとしていないのだ。今、私は、夢のみずうみ村浦安デイサービスセンターに常駐している。そこで、久しぶりに現場を取り仕切っている。朝夕の掃除に始まり、職員の動き、仕事の分担決め、洗剤からちり紙一つに至るまで、なんとも細かい雑多な仕事が数えきれないほど次から次に発生する。しかも毎日仕事だ。「吉村さんならどうしていたか。彼女ならどうするだろうか」それが、私と、山口県から浦安に期限付きで転勤赴任している、渡辺愛さんとの口癖である。浦安に来て、吉村さんの動きにまたしても私は気付かされた。「目につくことは誰もがやりこなす。吉村さんはただやる。しかし、目につかないことや目につきにくいことに気づき、それを黙々と自分でやっている」。誰も見ていない、誰もそれを吉村さんがやってくれていることを知らない。知っているか知らないかよくわからないがやってくれている。吉村恵子さんはそういう人だ。「若い人が、あなたのあとを追いたい。あなたを目標としたいといいます」と、私は書いた。それを壇上で読み上げた。職員みんなが、「そうだそうだ」と応じてくれているような気がして、涙があふれた。いい人が私たちを支えてくれている。

2番目に、藤村美智子さんを表彰した。萩市にケアマネージャーがいて、もしかしたら就職してもらえるかもしれないと、夢のみずうみ村を建設してくれた浜村工務店のかみさんが私に何かの折にポロッと語ってくれた。ケアマネージャーは、介護保険創生期で希少な存在であった。萩市の大病院から、見も知らぬ、わけのわからないNPO法人の施設などに転職してもらえるはずもないと思った。しかも、通勤に1時間半程度は楽にかかる。冬場は中国山脈の凍結との戦いが不可欠だ。案の定、最初は返答が頂けなかった。どうも難しいという返事だよと浜村さんから聞かされた。私は初対面でこの人だと決めていた。だから何度か声掛けして会って説得を重ね、ようやくOKをもらった。通勤hやはり大変であった。同じ萩方面から通勤するのは、藤村さんと片山さん、それに私の3人である。実際、冬場に凍結し、当時私が冬場対策用に自車は四駆であったので、それに、市民体育館前に駐車して、二人に同乗してもらって通勤したことが3,4回はあった気がする。よくぞ、山越えの就職を決断していただいた。初期の頃、中古プレハブの室内は夏場35度以上ある中で、黙々と仕事をこなして頂いた。一人ケアマネージャーとして、実に多くの方の面倒を見ていただいた。今は、山口デイサービスの居宅支援事業所に3名、防府デイサービスに2名のケアマネージャー体制である。その第一号が彼女である。家族の話をしながら、涙する場面に、何度か出くわしたことがある。クレームが来たご家族のもとに、私も一緒に出向いていったこともある。やや首を右に傾け、ええ、ええ、とひたすら相槌を打つ彼女。私は。腹が煮えくり返っているのだが、彼女のスマイル交じりのひき釣ったよう顔を垣間見ると口がはさめなかった記憶がある。どういう場面かは忘れたが、彼女のスマイルと真剣なまなざしには、人を吸い込む「目力」があるように思う。ずいぶんとこの10年間は嫌な思いもあったのだろう。感謝したい。

3番手は、一緒に冬場の中国山脈山越えをした、片山康成さんだ。萩子どもクラブという自閉症児の訓練ボランティアサークルを萩市で開始した当初からのボランティアである。郷里に戻ってこられて、建築設備会社に勤務している傍ら、ボランティアとして子どもクラブの活動に参加された。現場の作業服のままボランティアに来られてこともあったように思う。子どもとのかかわりなど無縁の方のように思えたが、実にこまめに動かれた。萩子どもクラブ忘年会では、彼の同僚のボランティア(太田さん、藤本さん)と3人でど演歌をうたわれるのだが、どうもその光景と障がい児と遊ぶ姿が結びつかないが、実に3人とも見事に子ども達の輪の中に入って活動していただいた。夢のみずうみ村に就職していただいた年だったと思うが、クリスマスも近い寒い日の夜中12時近く。戸締りして帰ろうとする私の耳に金づち音が響く。まさか、こんな時間に誰かいるのか!?。近寄って見る。小雪舞う外の壁に、巡礼札所の木工細工を作っているのだ。88か所をつくろうと躍起になっていた、その一つを真夜中につくっているのだ。近づいて行って私は彼を叱った。「クリスマスも近いのに、子供たちも家で待っているだろうに、なぜ、君は家に帰らないのか!!」・・・・(早く帰って子どもたちとクリスマスを祝ってほしい、そう願ったのだ)。私は、彼の子どもたちもよく知っている。ボランティア活動に奥さんともども一家で参加してくれているからだ。せめて、クリスマス前ぐらいは家庭サービスをしてほしいと感じたのだ。「早く帰ってやってくれよ。なぜ帰らない!」と叫んだ私に、鼻水を袖でこすりながら、「楽しいのです、これ(大工仕事)」と答えた。巡礼札所の数が一つ二つと、自分の手作りで村に増えていくのが楽しいというのである。私は声にならず、ただ、片山君の手を握って泣いた記憶がある。「君は、夢のみずうみ村の原点だ」。そう、記念式典の表彰メモに記した。

4人目は、石田陽子さんだ。高2の時、当時山口リハビリテーション病院に勤務していた私のもとに患者さんとして現れた。外来リハビリに必ずお母さんが車で送迎し、半日以上訓練して帰っていく。彼女は脳卒中後遺症左麻痺なのである。高校三年生を卒業して進路を相談された。今の彼女の機能レベルであれば、作業療法士がいいよと煤円たはずだが、私は作業療法士は厳しいと進言したと思う。彼女はあん摩マッサージ師を選択し学校も決めて私に報告に来た。しばらく私の前に現れなかった彼女が、その学校を卒業した直後に母子で私のもとに来られた。「先生はお顔が広いから陽子の就職先がないかとおもって」とお母さん。「ありますよ」と答える私。「どこですか」と陽子ちゃん。「夢のみずうみ村です」。6月から開所する予定でいたのである。ほかにも就職先を探せばあったと思うのに即断された。「陽子は山口百恵よりかわいい」というお母さんが、就職とはいえ、陽子さんを単身遠方に出すはずもあるまい。山口なら自宅から通える。ならば夢のみずうみ村就職OKだったのではなかろうかと勝手に思っている。彼女は1時間以上もかけて、車で通勤する。ラッシュを避けるために早朝暗いうちから家を出て、7時過ぎには、もう施設につく。早朝は予想外に利用者さんから施設に電話が入る。「今日は休みたいが・・・」という類のものだ。出勤者を早朝から配備することはいろんな意味で難しい。しかし、我が施設は石田陽子さんによって、朝の電話対応は完璧であり、ドアや窓の開閉はまず彼女一人がやっているといっても過言ではない。彼女は、悪い方の左足を引きずりながら走る。両手両足が効く人間よりも素早く反応できる。障がいを持たれた方の目標に彼女はある。本当にすごい人が、夢のみずうみ村に就職していただいたと感謝している。

最後は、宮本史郎君だ。社会福祉主事か、社会福祉士がいなければ相談指導員不在となるので、人集めに躍起になっていたがどうしても誰もいない。4月に入りかけたある日、「来年大学を受験して社会福祉士になろうとしている、社会福祉主事任用資格をもっている青年がいる」との情報が入った。すぐさま電話して会いに行ったと思う。彼に初めて会ったときの印象は「素朴な青年」というものであった。それは今も変わりがない。私は、この10年間、何度となく彼を叱り飛ばした。ある時は私の感情に任せ、どうしてそうしない、こうならないと、微に入り細に入り、彼に語り、一緒に夜遅くまで残って、書いたり作ったり、考えたり、様々なことをし尽くした。とりわけ、「おやじ表」「おふくろ表」というエクセルで自前で作った「収支見通しソフト」は、経営状態をチェックし現金の過不足をチェックするものであり、給料が払えるか否か、いつの段階でお金がショートするかしないか、それを確かめるものである。その表を、仕事で疲れ果てた夜中の十時過ぎころから深夜に至るまで入力しチェックし、赤字か黒字か、資金ショートするかしないか、一喜一憂した。彼は目を真っ赤にしながら、いつも必ず最後まで黙々とついてきてくれた。平成18年の介護保険の改正で、夢のみずうみ村が大赤字になった時、47都道府県を私が講演して回って資金稼ぎすることになった。第一回目は途中まで1人で回っていたが、私が大変ではないかということになり、彼が運転する車で全国を回った。時々ほかの諸君と回ったこともあるが、大半は、彼と全国津々浦々回った。ある年、夢のみずうみ村を出発した季節はまだ秋の始まりかという9月半ば。巡り巡って、東北自動車道で、青森あたりまで講演して回っていた時、高速の路面が凍結していることに気付かされた。車が横滑りしたのである。ノーマルタイヤで夢のみずうみ村を出ていた我々に、冬が押し寄せていたのだ。高速を時速30キロで走る。スリップする。この知己は本当に怖かった。真っ暗闇を走りながら黙々と、その日の宿まで移動する。めったに彼と会話を交わすことなく移動するのだが、腹がすくと、運転している彼に私が声かける。「今日何食べたい?」。彼は「○○を食べたい」と1回も行ったことがないのでさる。「別に・・・。何でもいいです」と答えることはわかっているのに私は問う。車を走らせながら、道路わきに、気を挽く店があると私が「ここにしよう」と決めて、晩飯となる。お互い疲れたときは道端の看板に書いてある温泉(健康ランド)に立ち寄って、つかの間の休息をとる。そうしなければ、宮本君は5時間でも6時間でもぶっ通しで、トイレ休憩もろくにとらず走る。隣で寝ている私は楽なのに彼はひたすら走る。これまで講演会は全国5周し、夢のみずうみ村の危機を救った。彼がいなかったら、夢のみずうみ村はここにない。そういう夢のみずうみ村の背後を彼はしっかり支えてくれた。

式典が終了し、歩いて5分もかからない隣の会場で懇親会である。200名近くの方々が参加された。多くの利用者さんがご家族とともに参加していただき10年を振り返っていただくという試みは素敵な会の骨格となった。友人知己も数多く足を運んでくださった。こぞって、開設当初の様子から考えて、夢のみずうみ村が今日、これだけ発展するとは信じがたいという声であった。私が司会進行役を申し出て、一人ひとり、人物紹介をしながら、メッセージをいただく方式で動き回ったものだから、少し、藤原が目立ってしまったことを反省している。私とのつながりを随所に語らえるのでいささか照れ臭かったが、お一人おひとりのお話を聞きながら、ずいぶんこの10年は長かったなあと感じた。あまりに、たくさんのエピソードがあり、結構、忘れていた話も飛び出し驚いた。

慶応大学のボランティアサークル仲間の佐藤貢一君は東京より来てくれた。若いころから、施設をつくりたいと思っていた思いを紹介してくれた。山口リハビリ病院時代、「温泉病院という名称やめてリハビリ病院にしましょう」と一緒に旗を振った神経内科の川澤先生や、野垣先生も久しぶりにお会いして、今日こうなったことを喜んでいただいた。かつて一緒に精神科の病院で働き、現在岩国市の市議会議員をしている渡辺靖君が、私の30代の頃のすさまじかった動きを披露してくれた。今は医療法人和同会の常務理事になられた中村さんから、開設前の研修の話が飛び出した。山口コメディカル学院の同僚の先生たちも、ただただ今日の発展を祝っていただいた。いろいろな友人知己のお話を聞けば聞くほど、自分の人生がいかに充実していたか、必死に生きてきたかということを再確認できて実に心地よかった。利用者さんも、ご家族でご参加いただいた。「夢のみずうみ村に来て、絶対不可能といわれていた自動車免許が再取得できた」という少し長い話も、利用者さんの生の声は実に感動的であった。

会の終わりは、恒例の「夢のみずうみ村締め」である。しめ方は私が一番だと自慢している。「ちゃちゃちゃ・ちゃちゃちゃ・ちゃちゃちゃっちゃ」。小指と小指を1本立て、互いに交差させたたく。次に薬指が立ち、中指、人差し指と徐々に一本ずつ増えていき、最後は5本指同士の拍手で終わるというものである。最初は音がないようなので声で「ちゃちゃちゃ」と補強してやるが、最後は両手をたたく大きな音で、声は不要となるという代物である。実に夢のみずうみらしいしめ方で終わったとも思う。権威的でなく、儀式的でなく、みんなが祝う、みんなのための会。ただただ、和やかな、素敵な会となった。

多くの方々にご祝儀や、お花などを頂戴した。この場をお借りしても御礼を申し上げておきたい。

ほとんど料理を食べる暇はなかったが、時にふと、料理をつまみ、アルコールを座って飲んだ。ふと、「さらに10年、夢のみずうみ村は進化し続けるなあ」と感じた瞬間があった。職員のどの顔も和らいで、にこにこしており、元気溌剌に見えたのだ。夢のみずうみ村はこの先も強いぞ。

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夢のみずうみ村浦安デイサービスセンター奮闘記

 

 がんばれ浦安 

千葉県浦安市は、東日本大震災の被害で、東京湾沿いの地域が、液晶化で道路が陥没したり、建物が傾いたり、沈下したり、水道・下水道施設が崩壊したりという大被害であった。地震3週間後、浦安市に出向いた。タクシーでやっと近くまで出向く。公衆電話が地面に埋没して45度に傾いている。セブンのコンビニの建物全体が、垂直に1メートル以上(?)も沈んでいるのには言葉がなかった。ある建物が少し傾いているのかなあと思って、隣の建物と見比べる。向かい合ったそれぞれの建物の端っこを、垂直に20メートル程度空に向かい、目測で延長線を伸ばすと、両端の線は交差する。すなわち、双方の家が向かい合って傾いていることがすぐに知れる。まっすぐに立っている建物はないのだろうか。   路面のガードレール、信号機は倒れ、道路は凸凹状態。水道管などがまともなはずはない。

東北の惨状はテレビで見知っていたが、浦安も相当なものだと直感。我々が施設をつくる当代島地域は被災を免れたという安ど感はあったが、それ以上に、浦安市の震災全体のすさまじさに身震いさせられた。

 その2週間後、市長室に激励に訪問させていただいた。

「今日やっと、災害本部を解散したのですよ」と語られる松崎市長も石田秘書課長(当時)も防災服であった。後で聞けば、市長のご自宅も相当の被害だったらしい。そんな様子は全く話されず、応対された。市長の心中の察しがつかなかったわが身が情けない。あの日も、もっと私ができた支援は有ったのではなかったかと反省しきり。

 「がんばろう日本」の垂れ幕の隣に、「がんばれ浦安」の垂れ幕。被害の大小はあるが、命があることの事実が重い。生きていることを喜びたいと自然に感じられた。同時に、この浦安の地で夢のみずうみ村を始める意義はさらに大きくなったと感じた。浦安が元気になっていくきっかけの一つになれるとありがたいと決心した。

元気づくりの素「夢のみずうみ村」から、浦安の市長さんや市民の皆さん、とりわけ、高齢者や障がい者の方々と一緒に、「元気」を生みだしていこうと強く、深く自覚し始めている。

夢のみずうみ村の職員はすごいよ

浦安の夢のみずうみ村は 建坪が3500㎡もある。その床に、杉板を張る作業を職員が行った。かつて、夢のみずうみ村山口デイサービスセンターの床板を職員が張り、建物の壁(スレート)のペンキ塗りもやった事実を参考に、なんとかなると思った私は、安請け合いをしていた。

「建築費が足りないので、床は我々職員が張ります。ペンキも塗ります」と宣言してしまった。無論、陣頭指揮を執る覚悟である。

 当初、6月開設の予定であったために、4月に採用した職員7名と山口県から2名のスタッフが1年間の期限付き出向で加わり9名。管理者と私の2名が加わると、総勢11名となり作業開始。ボランティアにも声かけして、威勢よく作業は開始された。

職員皆で、同じ作業をする体験は、必ず、組織の結束力を促し、個々の底力を形づくってくれるものと確信していたので躊躇はなかった。

スタッフの作業能力は抜群であった。

「お宅の、若い娘さんたちをバイトで雇いたいよ」

都合3週間だけ、床張りの指導を受けた職人さんは本気にそういった。職員の床張り技能はさえにさえてきたのだ。

狭いトイレ、角のある床。厄介な大きさの床が、とてつもなく広く目の前にある。素人ができるか。しかも、職員とボランティアを足しても知れた人数。すべてが自前でできるとは思えないと現場監督は思ったようだ。しかし、いまさらできないとは言えない背景にあった。毎日、ただ黙々とほこりの中で個々が動いた。

メジャー、金尺、電動丸のこ、ジグソー、スライダーと称する電動のこ、床張り糊、くぎ打ち、カッター、のみ。使いまわす道具はどれも若い小娘には無縁のものだ。センター増築時に使用した、青ヘルメットを山口から持ち込み、それをかぶって、・・・。

いろいろな道具を使い、3人程度のコンビで、次から次と床を張っていった。

午前9時ころから夕方6時まで。途中、昼飯休憩。作業に取り掛かる時の笑顔の表情と終わった時の無言の表情の落差が日増しに激しくなる。

立ったり、座ったり、細かく測ったり刻んだり。板と板をぴったりはめ込みながら張っる、床板をたたくための平たい板があり、そのたたく音。ボンドをつけた板がすぐにはげないように、空気十のようなホッチキス(タッカーという)を「バーン・バーン」とうちつける音が響く。

昨日、6月9日。やっと、全ての床張りが終わった。5月7日から作業に入ったから、1カ月もかかったことになる。現地を見ていただければわかるが、これだけのものを、職員だけで張ったということを誇りたい。

床張りをしながら、職員個々の個性が見える。チームワーク、協調性、相性、性格傾向等が試され相互に理解されていく。この、初期の作業には、東京で7月~採用する2人のスタッフも日替わりで作業に加わった。

開所式を前にして

山口のデイサー火オス職員である、片山くん、宮本くん。私が乞うて浦安に来てもらった。床張り、ペンキ塗り、プログラム準備。山ほどの作業が有る中、新規職員だけでは間に合わないという怖れを感じたから、あわてて山口から助っ人を頼んだのだ。山口のデイサービスも人的ゆとりはない中で、施設長はOKを出してくれた。二人が重なることなく、交互にやってきて、ホテル住まい2週間以上。朝から晩まで、ひたすら肉体労働。片山君は元来、顔が細い。それに輪をかけて頬がこけた。二十代後半の彼は、萩子どもクラブという私が主催する自閉症児の訓練組織のボランティアで私の目の前に登場。以来、30年。彼は、黙々と夢のみずうみ村を支え、私と走り回ってくれた。浦安では、帰る前日まで、「巡礼札所」の台座づくりをやりつくし、「3つしかできませんで申しわけありません」と謝って去っていった。3つも作ったのだ。夜の夜中にである。頭が下がる。

 宮本君は、レンタカートラックを運転し、私と一緒に、千葉県内のハードオフ(中古家具の店)のテーブル、椅子、ソファー、食器台、その他、買いあさった。片道1時間半程度かかって、買い付けに行き、トラックに積んで、施設までもどり、離れの建物に下ろして納め、再び、別の店に買い出し。荷物の積み下ろしを、彼と二人で黙々とやる。夜も更ける。家具は足りない。もう一度買い付けに行こうか。3度目は買い付けに行くということは、2度目に買った家具をトラックから降ろさなくてはいけない。3度目に買った家具類は、施設の戻ってきたら、トラックに積んだまま、翌日、他のスタッフと一緒に片づければいいのである。しかし、3度も買い出しに出ることは、身体がキツイ。車の中で二人とも無口。

思えば、宮本君と私は、全国を二人で講演して歩いたものだ。彼の運転する車に、衣装ケース12個の中に、鍋や長靴、傘、エトセトラ。あらゆる家具類を積み込んで、「創作リハビリテーション」と題した講演会を行った。その時も、夜遅くに講演する土地のビジネスホテルに入り、翌朝、8時に玄関を出て会場。そのまま夕刻6時ごろまで、講演し、片づけ、また移動。47都道府県、51,2か所ぐらいを歩いた。しかも、都合5回、m全国講演をこれまでこなしてきた。ある年の東北自動車道で、車がスリップしてふらつく。危ないが、どうしようもない。「高速降りて一般道にしたら?」と問う私に「国道をノロノロ行く方が安全」と宮本君。山口県を出てきたときは初秋であった。当然ノーマルタイヤである。こうした講演会の時も、宮本君は黙々と下働きをこなし、私の仕事、夢のみずうみ村を支えてくれたのである。

きつい浦安の仕事をこなし、宮本君は、東京湾から北九州まで船で帰ることにしたという。東京には、自車で、荷物をいっぱい積みこんできた。いつものように、高速道路の宿泊所で1泊しての日程だった。帰った翌日に施設庁が休みをくれたから船にしますという。施設長、吉村の配慮、宮本の賢明さ。こういう何気ない思いやりが通い合うところが夢のみずうみ村に集う職員たちの素晴らしさなのだ。

浦安から帰る最後の日、宮本君は。朝早くからデイサービスのシステム構築の作業をしてくれていた。何日も追われていたのだが、最後の日になってまだ家具類が足りないことに気付いた。再度、中古家具の買い出し。買ってきて、施設の玄関先に下ろした頃には夕方4時。6時に東京湾から船は出る。昼飯を食うこともなく、二人で動き回り、彼は、パソコンの一部をあわてて始末しながら「まだ、できていないが・・・・」と言う。「もう帰らないと間に合わないぞ」と私。レンタカーのトラックを返しに行く手続きを終え、彼は自車で東京湾に向かっていったのだが、私は彼の車を見送ることができなかった。ただただ、彼に苦しい仕事を強いてことの申し訳なさと、愚痴一つ言わず、適切なアドバイスと処理をする仕事内容にただただ感謝の気持ちが湧いてくるのだ。さらに、理由のない「さみしさ」に襲われた。腹心の部下という。そういう人間がいることをありがたいと感じた。

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愛知県高浜市で、平成の門前町づくり

我が国の門前町は、神社・仏閣を参詣する人間が各地から集い、にぎわいを構えるに伴って、「まち」が形成されていった。その現代版の「門前町づくり」を、ずいぶん前から提唱してきた。夢のみずうみ村を始める少し前からだから、もう11年近くたつ。当初は、「健康鉄道事業」と呼称して論文を書いた。子どもから大人、障がい者も元気者も、すべてが集い、健康になる場所を全国各地に作り、そこを訪ね歩こう。そこに、お金が落ちる、それがまちづくりの手段になると思い立ったのだ。そのむかし、中学3年の時、アメリカ、ネブラスカ州の「BOYS TOWN(少年の町)」というコロニー施設を日本に建設したいという思いを持ち続けた結果の行動であった気もする。「三つ子の魂、百まで」ということわざに似た、小さい頃の憧憬のような発想であったように今思う。

 そのベースが、夢のみずうみ村につながったと思っている。さらにそれが、「健康リハビリ巡礼札所事業」という発想に発展していったものである。今から、7、8年くらい前か、時期は曖昧だが、当時、沖縄県の経済関連の部長で、通産省から出向されておられたキャリアの方が、沖縄での勤務を終え本庁に帰られるときに、縁あって私に会いたいということになった。

「沖縄での、経済発展、まちづくりに夢のみずうみ村の発想を生かしたい」とおっしゃる。 

最初は、そういう漠然とした話しであった。沖縄に到着する私の時間と、沖縄を離れられる部長との接点での時間、40分が会談時間、それも空港内であった。

「沖縄に新しい経済の風を、介護の分野でなにか・・・・」という程度のきっかけ話に置き換えて話した。しかし、「国から法外な予算がすでに決定しており、企画がないのでぜひ提案を。しかも、締切期限があと3日」 すさまじい話であった。即座に、巡礼札所事業は具体化する。そう確信。こうした背景を聞けば、誰でもそう思うだろう。公募でありながら、限定された、決定的企画案を期待されている。そう即座に判断し、燃えた。

 みずうみ村に緊急電話。岡田代表代理、吉岡事務次長に、企画案を、3日間で仕上げるべく、細かく指示を出し、この2人と共に、半徹夜状態で企画案を策定。期限は3日。細かく、事業内容、予算を作成。この2人がいなければ「夢のみずみ村は何事も始まらない」と以後確信する「きっかけ」になったと今思う。

こうして、提案した企画が、「健康リハビリ巡礼札所事業」なのである。

沖縄県に、ヒアリングで呼ばれていった。結局、応募した事業はたったの2件。ヒアリングも、形式的なものであった感じ(?)。この話しは、出来レースであったことがすぐにわかった。それは、提出されたもうひとつのグループの中に、我々の知人がいたのだ。彼曰く。「特に企画らしいものはないんだよ我々には。うちのヒアリングはどうんるのかね」というようなことをこっそり暴露????(聞けば、それはほとんど未計画状態で提出されたようなものであるが、天下りの職員を交え、「これからお金があるから何かやろう式の組織」がこの予算を獲得するための当て馬に私が仕立てられたのではないかというのである。人生で初めて、裏の世界を見たようえ、悲しくもあり、さみしくもあり、悔しい出来事であった。

岡田、吉岡の両名に合わす顔がなかった。思い出すと今でも情けない。

それが、今、愛知県、高浜市で実現しようとしている。

 しかし、この提案企画書は、その後、全国各地に配ることになる。山形県さくらんぼ東根市、島根県津和野町、東京都、品川区、練馬区、沖縄市、具体的に、自治体首長や関係部課長と具体的に検討した機会を持った市町村は多く、話だけの市町村長、関係者、(社)は相当数にのぼる。語るたびに、私の思いは洗練整理され、とうとう、厚生労働省のモデル事業で、具体的に調査研究費をいただいて、山口県の夢のみずうみ村で実践していく運びとなった。  その間、国交省からは、3回にわたって、高島平団地、多摩平団地、千里ニュータウンなど、団地の空洞化に対する対策提案として、健康リハビリ巡礼札所の話を期待され会合を持った。 極めつけは、「安全と安心の介護ビジョンという」会で、当時の升添厚生労働大臣にも語ったのだが、その時は、会合のすさまじい「人(ひと)気」に圧倒されて、全くしゃべることができず、自分の非力、表現力、まとめ能力の拙劣さを痛感させられた味気ない話し。

 昨年行われた、第1回経済実勢ヒアリングで、当時副総理であった菅現総理の諮問機関で、「平成の門前町」の話をした。

そうなれば実現に近づいてきそうだ。このまま 高浜市の意気込みに巻き込まれて一気に日本第1号の健康リハビリ巡礼札所事業が展開するよう頑張りたいものだ

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ご飯にかけて パンをちぎって スープヤさん    夢結び(ゆめむすび)開店

「80歳になっても稼ごう。障がいという不便さを持っていても稼ぐぞ」を合言葉に、スープ屋さん「夢結び」を山口市湯田温泉街のメイン道路沿いに開店した。ずいぶん手荒い開店までの事業日程であった。厚生労働省のモデル事業として始めたまでは良かった。発想も素晴らしい。お茶漬け屋はどうかという私の提案に、若いスタッフもベテランも渋い顔。いろいろ意見は出てきていたが今一つまとまらなかった。私がどうも納得できなかったから口をはさんだ。最終的に、JR上野駅や、京急線品川駅構内などのスープ屋と、有楽町駅前ビルの1階にあるお茶漬け屋が私の頭の中で、「夢結び」をこしらえたのだと今になって思う。ふと湧いて出てきた。

 「山口の地でスープ屋? 新しいものにすぐに飛びつき、すぐ飽きる山口人だよ。つぶれるさ」

 開店初日に、ある客人の声が耳に入る。「うまかったよ、スープ」と、連れのもう一人はしゃべる。厳しい飲食業のスタートを実感。さあどうなる?

 開店2日目。スタッフである80歳と78歳の女性AさんとBさん。ご本人の希望で、この「夢結び」での仕事が始まっていることは言うまでもない。開設準備段階では、調理下ごしらえの「まな板」の前で、キャベツ切りや、鶏肉切り。10分も過ぎると「疲れた」の一言で、頻回に休憩。作業・休憩・作業・休憩。年齢からして当然だと思った。大変厳しい「立ち仕事」。開設準備期間は、午前11時半を過ぎ、やや早めの昼食休憩を、客のいない、お店の中でとることができた。スタッフ全体の練習期間なので、広い店の空いた席で、ゆったりと、お客さんが食べる要領のバイキング形式で、スープ、パン、おかず、飲み物を自由に、好きなだけ取って食べていただいた。しかし、開店した後はそうはいかない。

 3月29日(火曜日)開店2日目。Aさん、Bさん出勤日。11時から15時までの開店時間、すさまじい客足で、行列ができた。客足好調。Aさん、Bさんは洗い場の皿洗いと、レタスカット、キャベツの千切りを担当。狭い厨房は職員と利用者さんのスタッフで戦闘状態。フライヤーで「から揚げ」あげ、スープ作り、惣菜作り、皿洗い、下ごしらえ、洗った皿だし、下膳、惣菜やスープの補充。決めた役割分担は崩壊。目先の課題に右往左往。狭い調理場で身体をくねらせ交差し大葛藤。その中で、Aさん、Bさんは、2時間近く立ちっぱなし。手を休まれた時はおそらくあるまい、休まず立ちつくされていた。準備練習期間とは全く異なる状況に見事に順応されたのだ。お昼12時を過ぎていた。客席は満席を超える状況。気づくといつの間にかコップを手に持って、厨房から店の方に出ていこうとされるAさん。その後ろにBさん。休憩する気配りが職員にできなかった。お弁当の用意を忘れていた。お二人は昼食休憩を取ろうという行動だったのだと思う。

「今日からは、お客様がいらっしゃいますので、裏で食事をお願いします」と店の責任者岡田が声かけ。しかし、食べていただくものを確保していない。来客でごった返す、店のバイキングラインに並んで利用者さんスタッフのための昼食分を確保するメンバーもいないし、店内大混雑でできない。

「売り物のパンが裏においてありますから、それをつまみ食いしていただけませんか」と私。それが、お二人への配慮。他は、お二人のことをかまって差し上げるゆとりは皆無。二人は、そのまま、運よく晴天であったので、厨房脇のドアから出た、外のゴミ袋と雑多な段ボール箱の込み合っている空間にかろうじて腰かける場所を見つけられ、例のパンを召し上がったと、取材で連日詰めていた、フジテレビの安部さんが教えてくれた。

彼女が「きついですか」と質問すると「きつい」と。

「大丈夫ですか」と、様子をうかがうと「楽しいです」と答えられたという。

なんということだ。10分もすればすぐに腰かけ休憩されていた準備期間中のお二人。午前中ほとんど立ちっぱなしであったことに驚嘆。表情が実に素敵なのだ。

やや、認知症気味かなと心配するような失礼な感じを抱いていた私は、とんでもない勘違いをしていたと反省。職員は誰もその光景を見る余裕はなかった。職員の昼飯は、閉店後の午後3時半過ぎ頃から。お疲れ状態のまま、午後2時半の利用者さん就業時間終了。Aさんたち、利用者スタッフ5名(他1名は自転車通勤)送迎車に乗り自宅にお帰りになった。

 反省会でスタッフから「申し訳ないことをした」と声があがる。私は、通所施設ならばまさに失礼極まりないかもしれないが、ここ「夢結び」は、就労支援の場所である。社会の現場に居る実感をされたことを「良し」としようではないかと自己弁護(?)してしまった。

 早々に、週2回働きに来られる予定であったAさんのケアマネージャーから電話。

「相当お疲れなので、とりあえず週1回にしていただこうということになりました」とのこと。全く、納得がいく。職員スタッフ全員の共通認識。

いや、本当に、ご本人はここ「夢結び」に来たいと思っておられるのだろうか。不安が募る。送迎で伺う職員から

「Aさんは行きたくないとおっしゃっている。本当にお連れしていいのだろうか」との声。

「行きたくないとおっしゃったら、『今日はやめましょう』、そう宣言してください」それが私の指示。

ところが、Aさんは2回目の出勤。

「行きたくないとおっしゃりながら、送迎車に乗ろうとされたのでお連れしました」とのこと。

 管理者が前回の様子をうかがっている。Aさんが答えられる。

「この間は、えらかったねえ(山口弁で“きつかった”の意味)」

そういいながら、エプロンを首からかけようとされる。一同ホッとする。

3週目の出勤日の朝7時過ぎ。Aさんの息子さんから店に電話が入る。偶然「漬けもの」づくりで店に早出していた私が電話に出る。

「今日は、迎えにみえますか」と息子さんが問われる。

送迎車の運転手と、まさに、そのことを少し前に話し合っていたのだ。Aさんは、あの初日の体験では、キツイの連発。やめていただいた方がいいのではないだろうかと管理者ももう一人の職員も、私も薄々感じていた。そのことを含め、先述の初出勤の様子を息子さんに詳しく報告した。息子さんから、お叱りを受けることを覚悟した。

「相当きつかったようですね。『もう行かない』と申しております」とのこと。

「ごもっとも。本当に気遣いをして差し上げられず申し訳ないことを致しました」と私。

「それで、今日はお迎えにみえるのですか?」と息子さん。

「??…・・・?」 一瞬たじろぐ私。

「本人は、行かない、キツイからと言いながら、行く用意をしているのですよ。行ってよろしいのでしょうか?」と。

少し間が空き、我に返る。

「全く結構です。一応、いつもの様にお宅に伺い、行かないとおっしゃったら帰るつもりで職員がお迎えに伺っております」と有りのままを伝える。

「ありがとうございます。息子の私としては、母に行って欲しいと願っています」と。

こみ上げるものがあった。

Aさんらしい。「きついことはキツイ」と平気でおっしゃりながら、出ていこうという意思が働くのだ。まさにこれこそ「仕事」なのだ。80歳のAさんが選択した仕事なのだ。そういう場を夢のみずうみ村は作ったのだ。

その日の帰り、Aさんに伺った。開店3週目、Aさんにとって3回目の出勤日だった。

「今日はいかがでしたか」

「面白かった。えらいけど(キツイけど)」

なんということだ。「面白い」という言葉が、「えらい(キツイ)」の前にAさんの口から飛び出した。

素敵な働き場「夢結び」を作った。開店3週間。順調にスタート。客足は予想を超える。しかし、経営は実は楽ではない。私の戦争はこれからだ。またここに書きたい。

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今日も流浪している

 那覇空港をたって1時間。「間もなく鹿児島空港に着きます。鹿児島空港は雪」。耳を疑ったキャビンアテンダントのアナウンス。鹿児島空港は、吹雪。機体が激しく上下を繰り返して着陸。

鹿児島での講演会を終え、岡山に移動すべく、鹿児島中央駅から電車に乗る。予想した通り桜島が冠雪。雄大だ。海の鮮やかな冷たい蒼色。空も青。車窓に額を押しつけしばし眺める。すぐにガラスが曇って顔を遠ざけ、手で曇りを拭いて、また、顔を近づけ桜島を眺める。その繰り返し数度。こうした車窓を眺めることが貴重な気分転換という暮しが続く。

 岡山での講演を終え、倉敷に泊った。今朝、2月14日。倉敷も雪。みぞれに近い、薄く小さな雪が40程度の角度で横降り。身体が芯まで冷える。倉敷駅で岡山行き普通列車を20分近く待つ。待合室に入らず、ホームに身を晒し雪に当たる。底冷えすることが好きだ。なぜだろう。心の底も冷えてしまいそうな厳しい寒さが心地いい。稚内に行った時もそうだった。函館の零下7度の時もそうだった。自分の存在、自分自身を確認しやすくなるからか。よく分からない。荒涼とした中に身を置くことが好きなのだ。もしかしたら、人間死ぬ時はこうした荒涼感の中にあって、生きていることを深く自覚し、心地よい感覚に陥るのだろうか。まだ、私は死にたくはない。

「あなたはどちらの環境に身を置いたときが居心地よいですか」。灼熱の夏、炎天下の空の下。大きなヤシの木の下にある日陰ソファーで寝ころび、風に吹かれる自分と、厳しい吹雪に打たれて、防寒具をまとい、岸壁にたたずみ海を眺める自分。どちらがあなたは好きですか。どちらに、自分の身を置いた方が心地よいですか。

私は、限りなく後者である。柔らかな日陰のそよ風もいいとは思う。しかし、裂くような寒風が身体をたたいてくれる方が好きである。理由はない。わからないという方が正しかろう。そういう生き方の中に身を置く方がいいと感じる育ち方をしたということなのだろう。人間は、生身で体験したあらゆることで自分の感性を育み成長し、いつのころからか衰退していくのだ。もしかしたら、灼熱の夏の木陰が好きだった自分もいたのかもしれない。今は違うのだ。感性は年を取るごとに研ぎ澄まされ、徐々に衰退する。我が感性はいまだ衰えを知らずある。命はまだまだ伸びそうだという証だと思いたい。

 倉敷から名古屋まで移動している。京都を過ぎるあたり。今日も流浪している。

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夢のみずうみ村浦安が6月に開設予定

浦安に夢のみずうみ村を開設できることになった。残り半歩まで近づいていたこの計画。本当に、やっとのことで、「あと半歩」を登りつめた。改修工事を早急に始め、6月1日には開設にこぎつけたい。

話が持ち上がって、半年。開設資金をどうするかという課題。経営できるかどうかの見通しと不安。葛藤は続いた。私は経営者であるが経営の専門家では無論ない。一介の作業療法士である。経営には限りなく無知。しかし、私が経営している施設の年間売上高は6億円を超え、職員は134名を抱える。無知では済まされない覚悟だけはしてきたつもりである。しかし、情けない経営者だ。意欲だけでは経営できないことはこれまでの苦労で良く承知しているはずなのに、堅実性を備えない、衝動的な経営者に近い。猛省したい。

悩みと期待。不安と躍起。いい勉強をこの間いっぱいさせていただいた。すべては「人のつながり」であった。自分ひとりでは何も生まれない。しかし、まず、一人が始めなければ、事はならない。私の座右の銘だ。ここにいたるまで、何人の方々のエネルギーと時間を頂戴したのだろうか。ありがたい。

夢のみずうみ村を何とか日本全国に作ってほしいという声。それをいただいて奮起した。誰が「夢のみずうみ」をつくってもいい。「自己選択・自己決定方式」を実践する施設であればいいのだ。規模の大小に関係なく、個別処遇を基本とする通所施設が「夢のみずうみ村」だ。全国各地にこうした施設が生まれるといい。誰もが、こうした施設を身近な場所に作ってほしい。同じ様なものを真似してつくっていただいてもいいのだ。つくった施設を「ゆめのみずうみ」と名乗る必要はまったくない。「いいもの」をつくってもらったらいい。このことは、常々一貫して申し上げてきた。「いい施設をつくっていただいたら、それを、我々も真似させていただき、さらにお互い、より良い施設づくりをして行きましょう」、こういう覚悟で、これまでもこれからも夢のみずうみ村は走り続けたい。

夢のみずうみ村浦安ができる。6月1日開設の予定。

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