夢のみずうみ村を浦安市に作りたい

夢のみずうみ村浦安 誕生前夜話(1)  浦安市長との「糸」

ディズニーランドの建物の脇の道を初めてタクシーで通った。ただそれだけなのだが、ウキウキする。ディズニーランドに行ってみたいという気持ちがよくわかった。「あの中に入りたいなあ」と、ちょっと感じた。なぜここをうろついたか。夢のみずうみ村を浦安につくることになったからである。

浦安市の「広報うらやすNo.911 2010年7月1日号」の「こんにちは市長です」の欄に突然「夢のみずうみ村」が登場した。なぜそうなったかは記事に詳しく載っている。必ず、ご覧いただきたい。

松崎市長とは、それから、何度もお会いすることとなる。

初対面の時から、実に親しみやすく、何の遠慮もなく、自由に語りあえた。不思議なご縁を感じる。おそらく、山口県の私の選挙区の安部晋三元総理によく似ておられる(市長ご本人がそうおっしゃるが、私は父上の、故安部晋太郎代議士の方に似ておられると思う)から、昔からの知り合い感覚に陥ってしまったのだ。運命の糸のようなものを感じたと言った方が適切かもしれない。すべてがそこから始まった気がする。

市長の編著書「福祉自治体への挑戦―日本の自治体はスウェーデンを超えられるか<ぎょうせい出版>」を謹呈され、あっという間に読破したら、本物の市長ファンになった。夢のみずうみ村を関東地区、ここ浦安に建設し、全国に広めていきたいと深く感じ入った。

 埋立地のディズニーランドがある地区の真北になる、埋め立てではない、もともとの関東ローム層(?)の地域。そこに、音楽で有名な「ビクター」の工場跡地がある。その場所で、夢のみずうみ村をやりませんかという話である。山口デイサービスセンターを超える広大な床面積。関東地区でこれだけの土地は、小学校跡地以外にはない。過去3年の間に、品川区と練馬区の小学校跡地利用の話に取り組んだ経験を持つ。前者は政治的に潰されたと思っている。後者は、競争入札で負けた。こうした大規模空間を大都会で活用する企画は、覚悟して臨まないと苦い思いをすると知っていたが、そんな不安を一掃する市長の熱意がそこにあった。この誘致話に感動するとともに、貴重な機会だと直感。「絶対ここにつくるぞ!」 不退転の決意となった。

 この土地・建物は、民間企業の持ち物であり、そこを借家し、改装して運営することが前提で話が始まった。 地主さんに何度かお会いする。地主さんも、この話に乗り気であった。ありがたいことに、市長さんを始め、地主さんご家族、市の幹部の方々、議員さんまで、相次いで山口県の夢のみずうみ村を訪問されたのである。事前に、私が出演したNHK「プロフェッショナル」のDVDをご覧になっていたのではあるが、「百聞は一見に如かず、目からウロコ」と、皆さんから称賛をいただいた。夢のみずうみ村を浦安に作ろうという話は益々確実なものになっていった。

 

 夢のみずうみ村浦安  誕生前夜話(2) 

  市長選挙応援演説に しくじる(?)

昨年10月、市長は改選であった。4期目の選挙で、前回接戦であった候補との事実上一騎打ちのような感じだと外部の私でも察することができた。 市長は、マニフェストに、「夢のみずうみ村をつくる」ということを高々と掲げられた。私は焦った。議会や市民は、税金をつかって夢のみずうみ村をつくるのかと、安直に思うのではなかろうか。そんな話は全くないのに、誤解されると市長に迷惑がかかる。市長は一生懸命である。その熱意に燃えた。

市長の選挙を応援するために、残り3日を残す選挙期間中に私は浦安に向かうことにした。

当日、12時25分発の羽田行きに乗るべく、山口宇部空港に到着しなければいけない。ところが、それを12時50分と勘違いしていた。全く偶然、スタッフから電話あり、山口市内で用事をこなしていた私は事実を知って焦った。蜘蛛の糸1本で守られていると思った。

「今からでは,空港に間に合いませんよ」 スタッフのどなり声。愕然とする。

時間を25分読み間違えていたのだ。

「山口宇部空港に着けない」「羽田空港に行かれない」「浦安の午後3時から午後5時までの個人演説会場に間に合わない」「市長は藤原に幻滅する」「応援演説どころか、信頼喪失」「浦安に夢のみずうみ村は生まれない」

「あー! なんということだ!」

連鎖反応的に瞬時にマイナス現像が頭をよぎる。

「午後4時ごろまでに 羽田空港に着く便は、北九州空港発、福岡空港発、広島空港発、いずれかにないか。すぐ調べてくれ」

私はとにかく、新山口駅に車で直行する。なんとか羽田に行こう。たとえ、遅れても浦安に行こう。とにかく、新幹線に乗ることを考えた。

車で移動中、福岡空港経由で羽田4時5分着があるとの報告。それを目指す即断。それしかなかった。

羽田にはありがたいことに少し早目に到着した。車がそこに待っていた。

「警察に捕まらない程度に飛ばしてください」

私は必死だった。集会場の市長と絶えず連絡を取る。

「今どこだ?!」 市長も必死だ。

「まだ、○○(実際の通過地点)です」とはいえず、前向きに「もう○○(より浦安に近い地点)まで来ました」と伝達する。

会場に着いたのは午後4時27分。演説会場まで必死に走る。

「間に合った!!!」

NHKプロフェッショナルの私のDVDをみなさんが見ておられた会場に飛び込む。拍手が起きる。市長とがっちり握手。すぐさまマイクを握って叫ぶ。

「浦安に、夢のみずうみ村をつくらせていただきたい!」

「1円たりとも、市民の税金を使って作るのではありません」

「浦安市の介護保険サービスの質を上げることにお役に立ちたい」

選挙運動であるという意識は私にはなかった。ただ安堵。

「高齢者福祉のモデルをあなたが関東で作りたいとお考えなら、浦安市でやっていただきたい」、明確な当初からの市長の意志に、私がただ答えたいと思っただけだ。そういう話を必死に語る。

「市の予算は一切出せない。出さない。それでもやれますか。やってほしい」という市長の申し入れである。誤解を市民から受けると市長に申し訳ない、私もいやだ。そのことを強調したかった。純粋に、関東地区で夢のみずうみ村をどうしても作りたい。ならば、市長の心根に惚れた浦安市でやろう。熱意が熱意を引き出し事が運ぶ。生み出す。そういうことなのだと訴えたかった。会場の聴衆の方々にはそれが十分伝わったように感じられた。水も飲まず、約30分間しゃべり続けていた。

 見事、松崎市長は4選を果たされた。開票日当日の夜10時過ぎ、「5000票くらいの差がついて当確がでそうです」との連絡を受け、全身に走る熱いものを感じる。万歳三唱をしておられる市長の携帯電話に、私のお祝いの留守電を残した。「公約の筆頭に掲げ、夢のみずうみ村を浦安につくろうと発声された市長の熱意にこたえます」。

あの時。福岡空港にブッ飛ばさなかったら、私と市長との縁は切れていた。「夢のみずうみ村浦安」の話は消えていた。市長と「夢のみずうみ村」の縁は運命的だと思う。

 夢のみずうみ村浦安  誕生前夜話(3)  資金作りの苦悩

 なんとか資金を貸してくれる金融機関を探そう。これまで以上に拍車がかかった。夢のみずうみ村を経営する株式会社もNPOも、2期続けて黒字決算である。当然貸していただけるものと、これまでの経験から強気でいた。それが甘かった。

夢のみずうみ村を関東地域につくりたい。夢のみずうみ村には全国から見学者が殺到されている。しかし、山口県まで見学に行くにはいささか遠い。関東地区なら見学しやすい。そうなれば、全国に「夢のみずうみ村方式」は広がっていく可能性がより生まれやすい。私は燃えた。

浦安市からの助成金等、建設資金の無心をするつもりは毛頭ないと私はあちこちで宣言した。そうしなければ市長に申し訳ない。純粋な市長の思いに素直に答えたかった。かねてからの思いを一気に成就しよう。私は走り続けた。

銀行との折衝は、すべてに優先した。結果は、この事業の投資は、どの銀行も同じ理由で「融資不可能」という回答。融資が厳しいという理由は4つ。

①   土地建物が借地借家であり、担保設定ができない

②  夢のみずうみ村がNPO法人である。

③  営業拠点が山口県であり、千葉県は遠隔地である

④  折衝した各金融機関が、介護事業に資金調達実績がないか、融資分野として現段階  では介護業界は不透明なため即座には融資しにくい

手っ取り早く言えば、藤原茂が無力であり、信用に足らないということに尽きた。融資の実態は厳しかった。

相撲取り「高見盛」を知る人は多かろう。塩を天井いっぱい撒き散らし、顔や胸を自分の手でたたきあげて、自己鼓舞するあの力士。人気者だ。彼には失礼極まりないと思うが、「人気はあるが実力が今一つ」と思う。だから、「夢のみずうみ村を称して高見盛」としばしば表現する。夢のみずうみ村は結構、マスコミに紹介されたりして人気は先行しているので8勝7敗で勝ち越すこともあるが、実力は、7勝8敗で負け越しという「高見盛」状態である。とにかく、貸してくれる銀行が見つからなければどうしようも前に進まない。所詮、実力がないのだと落ち込む。

 苦悩の日々は、昨年から約4カ月。年を越した。毎晩、何時に寝入っても、明け方2時過ぎに目が覚める。それから、4時過ぎ頃まで悶々と堂々巡り。4時過ぎにちょっと寝る。そこで寝ていないと1日身体がもたない。先の見えない日々。しかし、夢のみずうみ村が浦安にできるという話は、周囲にますます広がっていく。空洞の進出話。このまま、実現できなかったら、私は詐欺師だ。眠れない日々は続いた。焦る。動き回る。名案なし。少しでも明かりが見えそうであればそちらに走る。動いていなければどうしようも身がもたない衝動に駆られる。浦安以外の仕事も多忙だ。すべては資金繰りに尽きる。この4カ月、年末年始を挟み、忙しかった。忙しさに逃げたかもしれないが、逃げても何も解決策は生まれなかった。

嬉しい事態が起こった。念じたものが通じたのだ。これまでの人生同様、ことが成った。多くの人に支えられてきた「夢のみずうみ」。そして、今回。また新たな人に支えられ、この窮地を救っていただけることになった。融資してもらえる銀行が出てきたのだ。支援者、銀行の支店長、次長、支店長代理。お一人お一人の顔が神々しく見えた。神仏は私を見捨てなかった。いや、夢のみずうみ村を、社会が見捨てなかったということなのだ。

夢のみずうみ村浦安 誕生前夜話(4) 

   ―内祝いの「イチゴ大福」―

 いくつかの関門がまだ残っているが、第一の最大関門とおもえる苦悩を突破した1月初旬、その日。

今まで何度も見ていた東西線「浦安駅」前に立つ。

「とうとう、浦安に夢のみずうみ村が生まれる・・・・」 

涙が湧いてきた。しばし、たたずむ。何度も見ている風景なのに、ビルが揺れる。駅前交番が光る。真向かいのうなぎ屋もまた揺れる。

「紅白まんじゅう買おう」 ふと思いついた。

駅近くの和菓子屋に飛び込む。

「紅白まんじゅうありますか」 「ありません」

「そこの赤白餅みたいなもの。それください」「ああ、イチゴ大福ですか?」

和菓子屋の女将は、紅白餅はないが、イチゴ大福と桜餅を混ぜれば、見事な紅白だとおっしゃる。「それを20包みください」と頼む。6つしかイチゴ大福はない。仕方がないので、「草まんじゅうと桜餅」「栗まんじゅうの白い箱と、ゆず餅の赤そうな箱」を混ぜ合わせて、紅白を用意。

「お祝いですか」と女将が聞く。

「内祝いです」と私。

「ならば、表に祝詞を張りましょう」と女将。

「内祝い」と書かれた幅が広く長い「のし紙」を持ち出した女将が、2つの餅(?)を入れた透明プラスチック容器の大きさに合わせ、紙の横をハサミで切って狭め、縦の長さも適切に切って、糊をつけ、店の包み紙で巻いた一つひとつ容器の上に、丁寧に「内祝い」と張り付けていった。

女将がこの手間暇をかけてくれたことが実に気持ちいい。あり合わせでも、なんとかお祝い事に仕立ててあげようとする女将の心根が、私のこれまでの苦労とダブった。ここでもうっすら涙が湧いてくる。 女将の一部始終を私は商品のカウンター越しに見ていた。実に心地よい時間であった。

やっと、浦安に夢のみずうみ村ができる。それを決定づけた本日。内祝いとして、紅白餅(?)を配るのだ。 市役所にもっていった。市長室秘書課。いつ行っても、自然体で、にこやかに迎えてくださった職員各位。感謝感激。市長はもとより、みなさんに喜んでもらった。感無量。とうとうやった。

事業開始までに、実はまだこの先、苦悩が湧きおこるだろう。その山は、これまでよりは低いと思う。しかし、産みの苦しみは続くだろう。それは、人間的に私自身が成長するための試練であり、夢のみずうみ村が社会的に羽ばたく前兆なのだ。今一つ頑張らざるを得ない。そう簡単に休ませてはもらえない。どんな事業も試練が待ち受けているからやりがいがあるのだろう。

確実に、夢のみずうみ村浦安は前進した。あと半歩だ。

カテゴリー: その他 |

年越し寒ブリ

2008年(2年前)の年の暮、31日。 小規模多機能型居宅介護施設「夢ハウス仁井令(にいりょう)」のおせち料理を買い出しに、大混雑のスーパーに入った。いろいろ買っているうちに 魚コーナーの前で1匹の魚に目がとまる。大きいブリだ。

「わー、安い。4000円だ!」 思わず人をかき分け手を伸ばして、残りわずかなその魚をゲットした。大儲けした気分でウキウキした。日頃、丸ごと1匹、大きい魚を目にすることは少ない。スーパーではせいぜい半身だ。家庭では大きすぎて買うこともないと思う。

食品コーナーで、利用者さんの顔ぶれや、飲み込み能力を想像しながら、正月用の食品を台車いっぱいに買いこむ。それが実に楽しい時間なのである。おでんを作り置きしておくこと。ほかにも、おせち料理の用意をするために、31日恒例の買いこみ終了。いざレジに並んで待つ。

買いこんだブリ、おせちの数々、レジが終わった分から、段ボールに詰め込み、最後の集計をまうレジ係の声を聞く。2万円くらい買ったつもりでいた。

「53208円です」

「えーっ! ご・ごまん?! ・・・・・・。」

驚いた。なぜ、そんなに高いのだ?! 手持ち金があるか?」

レジには私の後ろに長い客の列。なんとか支払えた。よかった。

さっそく品物の値段チェック。あのレジの器械は壊れているとやや怒りにも似た気分も交じって、必死に品物と値段を見比べた。見つけた。

寒ブリ1本40000円也。ゼロを一つ見落としていたのだ。愕然。

その瞬間思わず笑いが込み上げてきた。一人で噴出す。こっけいだ。なんということだ。

利用者さんはきっとこれを食べたいのだ。暮だ。すてきなことだ。天然ものの寒ブリが丸まる1本出てきて、それを、利用者さんの目の前でさばく。それを、見ていただく。日頃、反応に乏しい方も、よくお話になる方も、皆さんに、魚を調理することを見ていただくだけでも「夢のみずうみ」らしくていいい。そう気づき、料金に納得して施設に帰る。

利用者さん5人のテーブルの前に寒ブリを置き、「自信がない」と言っていた職員が見事にさばく。じっとただ見ているだけの利用者さん。

「おおきいねえ」「りっぱなブリ」 さまざまな感想が漏れる。見ただけでも感激が生まれる。

活発な動きもなく、ほとんど会話もなく、目をつむった状態でじっとしておられる方が多い。地域密着型小規模多機能型居宅介護施設は、デイサービスと異なり、入所、訪問、通所という3つの機能を持った施設であるからこそ、やや重度の利用者さんも多くなる印象がある。 

これまで、食事の時も、介助で、目を閉じたまま、唇の先での触感で口を開け、もぐもぐしておられた一人の男性。ブリの刺身を一切れ、介助で食べられた後、目をあけられて 「うまいのお」と、一言。日頃の食事風景も拝見したことがないし、この方の飲み込み能力も何も知らない私はただ感動。

さらに、「もうひとつ召し上がりますか」という職員の問いに「うん」と、はっきり聞き取れた。これまで、私は、その方の声を一度たりとも聞いたことがなかったし、意思を示される場面はまったく知らないし、とにかく無反応でいらっしゃった方だとお見受けしていただけに、ただただ驚いた。

「さしみがうまい」 たったそれだけのこと。しかし、眠っている感情、沈んだ気分、隠れていたおいしい味覚の記憶。いつもの自分とは違う様子が、ここで起こったのである。

2009年も寒ブリは登場した。年越し蕎麦は私が作る。揚げた「ごぼう天」を蕎麦に乗せて大好評を得た。小規模多機能型居宅介護施設「夢ハウスイ仁井令」では「寒ブリ」「年越しそば」「おでん」を恒例としたかった。2年続けば恒例といえるかなと決め込んでいる。

さて、今年。小規模多機能型居宅介護施設「夢ハウス湯田」が新設。寒ブリは2本必要。自宅のある萩市の「道の駅シーマート萩」に行き、生きのいい日本海萩沖の天然寒ブリを買う。

夢ハウス仁井令(防府市)は、管理者の中谷君が初めて包丁を握った。見事に3枚におろし、刺身を皿に並べてくれた。

Hさんは、日頃背もたれ椅子に深く体をもたれかけ腕を組んで目をつむり会話は無論なく、ただじっとしておられるだけ。ところが、「刺身刺激」は健在だった。

Hさんが、目を開けハシをとり、刺身に手を伸ばして、3切れも一度につまむ。醤油の小皿も、刺身は醤油をつけることも、きちんとわかっておられたのだ。たっぷり醤油をつけ、うまそうに、口に運ばれた。

「おいしいですか」  問う職員

「うまい」 の一声

この瞬間が見たくて、この声が聞きたくて 寒ブリを買ったのだ。

31日は忙しくなった。もうひとつ「夢ハウス湯田」がある。早く、こちらを済ませて行かなくてはならない。防府市から、山口市は35分くらい移動にかかる。雪が降ったりやんだりしているから、少しあわてる。

予定のおでんを作り、5時半からの夕食にあわせ、年越し蕎麦を9人前作る。今年は出汁にこだわった。 ようやく、今年新設した「夢ハウス湯田」に向かう。

こちらは、管理者の弘中さんが、自宅から刺身包丁を持ってきて、さばいてくれていた。すでに夕食は終わり紅白歌合戦が居間で始まっていた。

ここでも「刺身刺激」は爆発していた。「刺身」は、反応に乏しいMさんに、「うまいの発言」と「自ら手を伸ばす動作」をもたらしていたというのである。それに職員が驚いたというオマケ話がつくのである。日頃の様子とまったく違う利用者さんの反応。特別な日だ。年の暮れ31日。年越しの寒ブリ。

40000円は、まったく安い買い物であった。

カテゴリー: その他 |

第1回夢のみずうみ杯片麻痺ゴルフコンペin沖縄 

寒いさむい沖縄。沖縄は温暖な場所というイメージが壊れた。 指先はかじかみ 身震いしながら 選手は18ホールを終えられた。 4名ずつ8グループに分かれて順次スタート。 私も人生はじめてゴルフをした。

その昔、児童養護施設の指導員をしていた頃、施設の隣の立川市陸上競技場で夏の明け方、粗大ごみ場で拾ったドライバーで、打ちっぱなしをしている養護施設の子どもたち。管理人に叱られる。いかんやめさせようと出向いて行った私だったが、「お兄さんやってみない?」(私は施設では当時ワシャ兄さんと呼ばれていた)と、子どもたちからの誘い。その声に負けて、ドライバーを一振り。カキーンと素敵な感触。それとほぼ同時に「こらあー!」と、はるか向こうから怒鳴り声。管理人が走ってくる。あわてて私が一番先に物陰に隠れる。子どもたちが当然捕まる。注意を受ける。遅れて私。「すいません。厳重に注意いたします。勘弁してください」と謝って一件落着。その場を離れて、子どもたちには平身低頭。これが、唯一の我がゴルフ体験。 その私が、沖縄で コースに出たのである。

 始球式をやる手はず。きちんとボールにあたると、煙を放ちながらボールは飛んでいくはずであった。おもむろにドライバーを振り上げ一振り。見事な空振り尻もち。何ともいただけない。2回目でなんとか転がしたが煙が出ないのである。二番手の実行委員長、角谷さんが、右手1本で見事に100ヤードくらい飛ばし煙を吐いて無事始球式完了。沖縄朝日放送では この模様がテレビ報道されたのです。

各パーティーは4人乗りカートを乗りこなし、競技開始。競技結果は別に発表があるとおもうのでここでは省略。片麻痺であっても、見事に18ホールを歩き回り、楽しむ、競うことができたのです。病前に変わらず行える事実がすごい。ゴルフを楽しんだことがない方も、これを機会に「片麻痺ゴルフ」をお始めになったらいかがでしょうか。

 第1回の大会としては大成功。岩手県から参加された方から、岩手で、身体障がい者ゴルフ大会がすでに6回も開催されているとの情報あり。おそらく、各地で同様のチャレンジが行われているのではないでしょうか。ぜひ、このメールをご覧くださった方々から情報を提供していただき、輪をどんどん広げてまいりたいと痛感いたしました。

 ちなみに、初体験の私は、9ホールで途中棄権(マンホールと呼ぶことにした)。しかし、実に爽快でした。ゴルフは難しいですね。私が打つボールは上にあがらない。ゴルフ打ちっぱなし練習場に足を運ばれる方々のお気持ちがわかります。夢のみずうみ村に「打ちっぱなし」を作らなくてはいけない感じですね。

この大会を、次年度以降、社会運動として、広く日本全国に向けて展開して参りたいと考えております。皆さんの力を結集していきたいと考えます。 どんどん声をお寄せくださいませ。

カテゴリー: その他 |

日本海の魚は 能登もいい

石川県小松市の小松グランドホテルの先にある日本料理屋に偶然飛び込んで感動してから3度目の訪問。店の名を覚えた。日本料理「梶助」である。店の老夫婦と先のブログで書いたが、どっこい、店主は私より6日若い弟であり、奥方はさらにお若かった。息子の太郎氏とも名刺交換した。なんせ、この店お味付けが絶品なのだ。

「もずく」は「わかめ」のような大柄の葉状態で歯ごたえあり。焼き「しめサバ」は絶品。単に焼いたサバと異なり、甘酸っぱさがいい。アマダイの酢押し、エイのひれの煮つけを、さりげなく「うまいですよ」と大将がカウンター越しに出していただいた。まったくこれまでの人生で口にしたことがない味。ご当地だけの雌ガニ、岩ノリの茎ワサビまぶし(私がかってに命名)など自家製で作られる日本料理の味の深みは食べないとわからない。

魚は日本海。それも長州北浦と思っていたが、どっこい能登半島の魚介類もうまい。今日は、もう食べられないと思っていたが、オアイソした後に出てきた○○貝(名を忘れた)を長い竹ぐしで、殻から貝の先端までをくるくる巻きあげ、目の前に差し出されたら、口に入れざるを得ない。うまい。殻ごと煮るからうまいそうだ。煮汁を督促していただいた。能登に行くなら「梶助」だ。また伺いたいものだ。

 かの山頭火は食い道楽であったのだろうか。ただの飲み助か。私は酒は飲めなくなった。

カテゴリー: その他 |

足し算・引き算の介護研修会(金沢)終える

山口 福岡  岡山 札幌 と、「足し算・引き算の介護研修会」を終え、今日、金沢での研修を終えた。18時発福井行き普通電車に乗って本日の宿、小松まで移動する。北陸本線の普通車はドアが手動である。気づかなかったらドアの前で立ち往生するところであった。シートに腰かけるとお尻の下が熱い。暖房がしっかり効いている。寒い冬の到来。秋から冬にかけてのうらさびしい日本海と、スカイブルーさんさんと輝くぎんぎらギンの太平洋とどちらが好きかと問われたら、間違いなく前者だ。日本海のどんよりとした冬の海のうす暗さが自分の性にあっている。

金沢の講習会も参加者は熱心だった。午前中の講義。午後からのロールプレイ、バズセッションと活発にワーキングは進んでいった。夢のみずうみ村の精神をしっかり啓蒙できた。

この、足し算・引き算の研修は、来週名古屋だ。まだ、全日程の半分にも満たない。いささかくたびれている。今日はしっかり休みたい体力状況だ。小松には、なじみになった小料理屋がある。過去2回行ったが客は自分一人。老夫婦が、接待するともなく無視するでもなく、遠からず近からず注文を聞き、できたらそれを運び、静かな、店は黙って一人で日本海の冬のわびしさを味わうにふさわしい。また、あの店に立ち寄ろう。今日で店の名前くらいは覚えないとなあ。

  

カテゴリー: その他 |

強くなくていい 弱くない経営の仕方もあるのか

   今の世の山頭火も、やはり放浪する

山口県内にいることが随分と少なくなってきた。とにかく講演活動が増えた。それでも昨年度よりは少なくしてこの有り様。3週間に2回程度の依頼講演会。さらに、夢のみずうみ村主催の講演会が重なる。「足し算・引き算の介護」研修(全国21位か所)と、「大規模通所介護施設講習会」が10回あり、すでに何回かは終了している。

施設の現場に居て、利用者さんとワイワイガヤガヤすることが好きで始めた事業がとんでもないことになってしまった。現場にいないことが多いとはなんたることか。何のため、だれのための「夢のみずうみ村」なのか。自問自答しながら旅は続く。私の、全国講演行脚は「お金をかけた山頭火の放浪」とでも称されるか。ずいぶん私は放浪した。  

昨年、稚内の先、宗谷岬の隣の野寒布岬に立った。初冬の吹雪は案外と心地よかった。周辺にも、そこまでの道中にも、誰もいない先端の灯台。殺風景な原野。今ここで私が消えたら、誰も気づかない。頭の中に迷いの声。「このまま存在が不明になったら」。身震い。

同様な体験は沖縄でも起こった。石垣島で仕事。休養せよと、半強制的に、簡単に戻れない竹富島をスタッフが宿泊先に選んでくれた。南国の草木と石垣の間を歩く。全く人に出くわさない。道があるからジャングルではないが、うっそうとしている。ここでハブに噛まれても助けはない。スカイブルーの海に突き当たった。星の砂浜。砂粒が小さい。誰もいない。何もない。ただ海。素っ裸になって海に入る。浅いのに、流れが急で思わず沖に吸い込まれ流される。「ああこのまま南に流されていき、サメに食われるか」。やっとの思いで砂浜に戻る。遊泳禁止の立て札が目に入った。ここで私が消えていたら、捜索願が出て発見されるまでに何日かかるだろうと思った。身震い。

こうしたことを白状することは、決して、自分の後ろ向きの姿勢を見せるつもりではない。しかし、こういう漠然とした地に足がつかない感覚に昨今頻繁に襲われる。

  経営者としての能力を自問自答するしかあるまい

 「経営者はみんなそういう気持ちになりますよ」「トップの悲哀だ」、と札幌の社会福祉法人理事長は私につぶやいた。そうだ。私は多くの仲間、素敵な職員集団に支えられているのだ。先陣を切る立場とは、自問自答する立場なのだ。当たり前だ。そう諭された気がした。感謝。組織経営運営10年。徐々に重荷になってきたのだろうか。私は、どうも経営者の器ではないような気がする。

地に足をつけずに全国を飛び回っている間に、徐々に崩れ消え去っている自分自身があるのだろう。それは、人間と人間が交流する渦中に溢れる「泥」のようだと表現できる。人間はそういう泥ぼこりや、におい、感触を通して、自身の足の落ち着き場所を固めて仕事をするのだろう。マウンドに立つピッチャーが、投げ始める前に、マウンドの土をスパイクで蹴って、自分の足に合うように調整する。それに似ている。意識的に足固めを行うピッチャーように、無意識に自分の足に合うように「泥固め」をすることが必要なのだ。私は放浪することによって足場を固める時間と機会を失ってきたのかもしれない。反対に、放浪することによって、足場を固める意識を磨いているのかもしれない。

 私がいない夢のみずうみ村をスタッフはしっかり守っている。発展させてくれている。しかし、私自身はただ不安の中にある。「村」は私の足底になじまなくなってきつつある。悲しい事実である。私は何をするため、誰のために夢のみずうみ村を始めたのだったろう。

 今、関東で夢のみずうみ村をつくるべく奔走している。その渦中、夢のみずうみ村応援団長だと私が勝手に思いこんでいる内閣府のA氏にこっぴどく叱られた。札幌市内を走るタクシーの中で携帯にかかってきて、タクシーを降りても路上で20分程度話は続いた。

「お前一人で何をやっている」「勝手に奔走するな」。言葉は厳しく速射砲。全く反論できなかったし、そのつもりもハナからない。鼻水交じりの涙。私も夢のみずうみ村も、A氏の発想についていく覚悟は不変である。頭からすっぽり「私」は消えた。

しばし呆然とし、遅い昼飯を味噌バターコーンラーメンで済ませた。札幌ラーメン横丁「ひぐまラーメン」は7度目の訪問。人気の店でこれまでラーメンにありつけたのは4回だけ。待っている客が路上に溢れ、店に入れずラーメンにありつけたら好運という店である。食べたのは4勝3敗。今回で勝ち越した。ラーメンで少し気分は落ち着いた。

やがて、私の元に、電話やメールが殺到した。A氏が「藤原をなんとか支えろ」と関係者に檄を飛ばして結果であることはすぐに察しがついた。無性にうれしかった。見捨てられていないという実感。一人ではない。

関東での事業展開は、事前に情報(「夢のみずうみ村」ができる)が浦安市で公報されていたため、開設は明白。しかし、資金調達は立ち往生という現実に眠られぬ日がずいぶん重なっていた中でのA氏の檄であった。人間はおかしな動物だ。その日以来、少し眠ることができ始めた。具体的にはまだ資金調達の明かりは見えていそうで確定していない。しかし、安堵感がある。

 突然、A氏と酒を交わす機会が生まれた。久しぶりだ。あの激昂した中味にはまったく触れることなく時間は過ぎ、最後に強く握手して別れた。夢のみずうみ村は間違いなく全国に生まれ始める。そう、また実感した。

 地に足がつかない放浪ではあるが、しばらくは、関東の浦安辺りで、しばし、止まるであろう。少なくとも1年は拠点をそこにおいて、初心にもどって夢のみずうみ村をけん引したい。そのことに没頭せざるを得ない。夢のみずうみ村の命運がかかっているからだ。

 羽田からの帰りの機内で、これを書いている。ずいぶんと長いブログになった。私はもう、このブログにしか語りかけることができない。これを通じて多くの仲間や職員に語りかけよう。ありのままに。

みんなから見捨てられていないという実感が私を安堵させた。A氏と酒を交わしたこの日から私は夜ぐっすり眠れるようになってきた気がしている。

京都駅で北陸線「金沢行きサンダーバード」を待っている。0番ホームに風がいつもより多く、きつく、吹き去っていく。それが、案外心地いい。ああ今日も僕は生きている。

カテゴリー: その他 |

エジソンはLED(発光ダイオード照明)を知らない

夢のみずうみ村を全国に広げたいと思ったのは、平成18年4月に当時の厚生労働省の一人の官僚が村を訪問され感動されたことに端を発します。「この方式を全国に広めてほしい。そのためには、まず関東に拠点を作ってはどうか」というアドバイスでした。

それを受けて、全国各地に講習会を行ったり、「大規模講習会」と称して、1泊2日の施設内研修を公募で行いました。「夢のみずみ方式」と名付け HOW・TOを伝授して5年。ずいぶん多くの施設で「自己選択・自己決定方式」は展開されてきました。「体育館デイ」と称したり、「施設内通貨」を採用したり、とうとう評価システムまでを模倣される企業体まで登場しました。資本力にかないませんから、この方式を商売にされていると知った時は愕然としました。その社のインターネットで公開されている文章を見ますとまたびっくり。用語は一部変えてある(例えば、人生の現役を生涯現役といいかえる) のですが、中身は、まさにいろいろ発表してきた文書そのものに酷似しています。最初に見つけたわがスタッフが「こんなこと社会的に許されるのですか」と、暗に抗議してはどうかという面持ち。「発明王エジソンはLEDを知らない」と私は即座に答えていました。真似できるものは何でも真似て結構」と言い続けてきた結果です。歓迎すべき事態です。全国のすべての高齢者を夢のみずうみ村にお迎えすることは不可能です。こうして、似たような質を追求する施設があちこちにできるきっかけを提供できたら素晴らしいことです。こうした結果は望ましいことです。夢のみずうみ村のすべての関係者がそう念じてほしいと思います。 まずは、表面を真似していくことからはじめていただき、自己流を模索し、より質の高いサービスを社会に提供していく姿勢さえ見失わなければいいのです。儲け主義は困ります。介護施設の質を競いあう、そういう関係でありたいものです。 

 明るい電気を竹のフィラメントで作ったエジソンも、今日、明りがLEDのような明るさまで表出できるとは想像できなかったであろう。「夢のみずうみ村を全国各地に作っていただきたい。 エジソンはLEDを知り、「より素敵なものを生み出そう」と思うでしょう。夢のみずうみ村はまだまだ過渡期です。さらに素敵なものをスタッフみんなで生み出していきたいと思います。

カテゴリー: その他 |

 おいでませ「夢のみずうみ村」ホームページに

ホームページの和訳は直訳すると「家頁」か?。何の意味かわからなくなる。「開放我が家」「勝手宿屋」「自由気まま部屋」などのあてじをあてたらどうだろう。いろいろ考えられそうだ。いや、もうホームページでいい。多くの方がtに立ち寄ってほしい。

 「おいでませ」(「よくいらっしゃいました」の山口弁) 「夢の湖村」に

ホームページはだれもが自由に好きな時間に立ち寄れる。いや、ズカズカと勝手に土足で家の奥深く入ってこられる仕組みだ。ぜひ、靴を脱いでいただき、できれば下足を揃えて上がっていただき、まずは客間でゆっくりご挨拶。その後、茶の間に来てくつろいでいただき、よろしければひと風呂浴びていただいて、一献酒でも交わすぐらいの客人との交流を望みたいものだ。いつでも「おいでませ」。

 

カテゴリー: その他 |

夢のみずうみ村 ホームページリニューアル

これまで、ホームページは利用者さんの伊藤賢彦さんに管理していただいていた。木戸山ボーイと名乗り、個人でホームページも作られていた。電動車いすを巧みに操作し、広い施設内を縦横無尽に動き回り、当初はあまり社交上手とは言えなかったが、真摯なお人柄を象徴するような会話力で、利用者さんの写真をデジカメで撮りまくり、ホームページに載せられた。むろん許可を得ての話である。「夢のみずうみ村はこの先どこに向かいますか。理事長の見解を載せたい」と取材受けたこともあった。遠隔地の多くの方々が、伊藤さんとのメールを通して夢のみずうみ村のハウツーを学習された。その伊藤さんが、あっさりとなくなられた。ご本人も「風邪をこじらせてちょっと入院」という程度のことであったので、まさかお亡くなりになるとは奥様ですら思われなかったとのこと。「まさか本人もこうなるとは信じられず悔しがっていると思います」と奥様。神はいたずらをした。我々も信じられない。山口デイの身障者用のトイレにある移乗介助棒(天井から床までつながっている棒)は、「これさえあれば自分でトイレに移乗できる。導入してくれませんか」と伊藤さんの一声で取り付けた。トイレで今も我々は伊藤さんに出会っている。

 伊藤さん亡きあと、ホームページの管理を永久英一さんに頼んだ。脊髄損傷の彼とは、以前勤めていた山口リハビリテーションでの患者とセラピストという間柄であった。「床ずれ」ができるので長時間座っておれない彼が、限られた時間の中で、仕事としてホームページの管理をしていただきたいと頼み快諾いただいた。彼とは長い付き合いで、NPO法人立ち上げのときには理事になっていただき、約7年間ご尽力いただいた。彼の将来像は在宅生活ではなく施設入所と考えておられ、幸運にも空きが出た入所施設に終の棲家を求め山口の地を離れられた。「離れた後もインターネットの世界はどこでもできますよ」と、ホームページの管理の仕事は継続する予定であった。しかし、組織が大きくなり、日常的にたくさんの情報をアップし、整理するとなるとやはり、専門業者に委託すべきかと判断し、今回、リニューアルとなった。永久さん。長い間ご苦労様でした。この場もお借りして感謝申し上げます。

カテゴリー: その他 |

夢のみずうみの源泉(命名の意図)

夢のみずうみ村のホームページリニューアルに当たって、「夢のみずうみ村」と名付けた意図をお知らせしておきたいと思います 

夢のみずうみは利用者さんや職員はもとより、見学に訪れる方や夢のみずうみ村を見聞きされた多くの方々の「意思」が循環する場所です。「意思の循環の場」。これが「夢のみずうみ」なのです。「ああしたい」「こうしたい」と思ってここに集い、うまくいったら感激し、そうならなかったらまた挑戦すればよい。そういう「意思」が次から次に湧いてくる場所であります。十和田湖の水は奥入瀬渓谷としてあふれ流れ出ます。しかし、十和田湖の水が枯れたという報に接したことはありません。おそらく、周囲の山々や地下から水が流れ込んだり、湧きだしたりしているからです。私たちは十和田湖のように、いつも、絶え間なく「思い」湧きだし、ああでもない、こうでもないと、自分の気持ちに問いかけ、活発に生きていうことをよしとします。こうした、「元気で、楽しい、面白い、愉快、充実した我が人生」を過ごしましょうという願いがめくりめく(循環する)場所が「夢のみずうみ」です。

                              (2010年11月15日)

カテゴリー: その他 |